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「現地で天敵と顔合わせですか。確かに気が進みませんな」
日垣より六、七歳年上の高峰が、口ひげをいじりながら渋い顔になる。対照的に、愛嬌ある顔立ちの小坂は、明るい声で口を挟んだ。
「そういうの、夫妻単位なんでしょ? 奥さんに隠れ蓑代わりになってもらうわけにはいかないですかね」
「日垣1佐は、こっちには単身で来ておられるんだよ」
「じゃあ、うちの部の誰かを『奥さん代理』で連れてってしまえば……」
3等海佐の、階級にはあまりそぐわない軽口に、美紗はなぜかドキリとした。
日垣さんの、奥様の、代理
小坂の奇妙な提案に、彼は何と答えるのだろう。美紗は一人、身を固くした。耳がそばたつ一方で、日垣のほうを見ることができない。
「それって、タダ飯食えるんすか? 大使館の?」
日垣の言葉より先に聞こえてきたのは、食い意地の張った1等空尉の声だった。
「しかもフランス! めっちゃうまそう! 僕行きたいです!」
「うちの部長の『奥様代理』に男がついてってどうすんだ」
「きっと変な誤解招いちゃうわねえ」
宮崎が再びオネエ言葉で茶々を入れると、下世話なジョークで盛り上がる若手と彼らを叱りつける班長の松永の声で、「直轄ジマ」はますます騒がしくなった。
その様子を、美紗はぼんやりと見つめていた。
レセプション、つまり、立食形式のパーティでは、大勢の関係者が一堂に会し大半の時間を自由に歓談して過ごす。二人連れで出席したとしても、当の二人で落ち着いて話す時間など全くない。
それでも、パートナーの肩書で第1部長に同行することは、あまりにも意味深なシチュエーションに感じられる。
「じゃあ、うちの鈴置でも連れて行きます? 鈴置、今週金曜の夜、何か予定あるか?」
松永の声に、美紗ははっと顔を上げた。身体中に緊張が走り、「ありません」と答えるのが、一瞬遅れた。
「隠れ蓑代わりの奥さん役なら、もう少し年長の経験豊かな人間のほうが、やりやすいんじゃないですかね」
佐伯が、ひょろりと細長い上半身を伸ばして、総務課のほうを見た。日垣と松永も佐伯の視線を追う。
「直轄ジマ」よりよほど粛々とした空気に包まれた総務課では、スラリと背の高い女性職員が、圧倒的な存在感を放っていた。
「文書班長の吉谷女史あたりなら、どんな事態にも対応できますよ。彼女はフランス語も流暢だそうですから、連れて行く理由もできますし。何より、……近寄り難い雰囲気なのが、今回の場合はうってつけかと思いますけど」
最後のほうは声が小さくなった佐伯は、吉谷と目が合いそうになって慌てて首をすくめた。「確かにな」と呟く松永の傍らで、日垣は黙って佇んでいた。
その姿勢の良い立ち姿を、美紗はそっとうかがい見た。
彼は、じっと、吉谷綾子のほうを眺めている。口元にわずかに笑みを浮かべているように見えるのは、気のせいなのか。
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