746人が本棚に入れています
本棚に追加
高めのヒールを履いて更に背丈の増した彼女が、ふわりと髪を揺らして日垣に顔を向けると、二人の距離は至極わずかになった。女が少し背伸びすれば、互いの唇が触れ合ってしまいそうに、近い。
日垣さん
危うく声を出しそうになるのを、美紗は辛うじて堪えた。
吉谷さんを、そんなに見つめないで
心の中で、彼を呼んだ。しかし、飛び回り始めた大きな蝶が、煌びやかな鱗粉を振り撒いて、小さな美紗を容赦なく阻む。
日垣は、第1部のドアを開けると、エスコートするように、吉谷綾子を先に通した。そして、美紗のほうに振り返ることなく、ドアの向こう側へと去っていった。
自動ロックの音が、その場に取り残されたように響いた。
美紗は、手の中に残った大使館からの招待状を、何となしに見た。開封済みの封筒の中に入っていた金縁の分厚いカードには、「フランス革命記念日に際して」と銘打たれ、宛先には、「Colonel and Mrs. Takahito HIGAKI」と記してあった。
未来の航空幕僚長と噂される第1部長の「奥様代理」の任にふさわしいのは、吉谷綾子のような女性だ。彼女を前にして、鈴置美紗は、とても太刀打ちできない。
敗北感が満ち潮のように押し寄せ、周囲の光と音を奪う。
黒塗りの官用車の後部座席に乗る二人は、道中、どんな言葉を交わすのだろう。
政財界の関係者も大勢招かれるレセプションで、二人はどんな時を過ごすのだろう。
胸の中を、美しすぎる大きな蝶が、あたり構わずかき乱していく。
「残念だったね」
背後から忍び寄るような声に、美紗はびくっとして振り向いた。小坂3等海佐が、両手に腰を当てて、ニヤリと笑みを浮かべて立っていた。
「日垣1佐の奥さん役。最初に名前が出たのは鈴置さんだったのに」
「べ、別に、……いいんです!」
美紗の狼狽ぶりをからかうように、小坂は口を横に広げて白い歯を見せた。
「ただメシ食いそびれちゃったねえ。あ、ただ酒もか」
「レセプションだろ? どうせ立食だ。そんなに食えやしないって」
いつも勘のいい直轄班長の松永2等陸佐は、しかし、ちらりと美紗と小坂のほうを見やっただけで、再びパソコン上の自分の仕事に戻った。窓際の彼の席からは、美紗の表情がはっきりと見えなかったようだった。
「シマ」の一同が遠慮なく笑う中、美紗は真っ赤になって黙っていた。本心を知られるくらいなら、食い意地の張った女と思われているほうがいい。
「立食で全然OKですよ。『タダ飯』っすから。そういう話、うちには来ないんすか?」
一人暮らしの片桐1等空尉は、文字通り「オイシイ話」が羨ましくて仕方がないようだった。松永が「全くないね」と顔も上げずにあしらう。
代わりに、松永のすぐ脇の席に座る佐伯3等海佐が、第1部の大きな部屋の一角を指さした。
最初のコメントを投稿しよう!