746人が本棚に入れています
本棚に追加
「取りあえずタダ飯が食いたいなら、事業企画課の渉外班がいいよ。在京大使館の武官室や在日米軍の連絡官室と付き合いがあるから、レセプション程度の行事なら、班員揃ってご招待にあずかれるんじゃないかな」
片桐につられて、美紗も指し示された方を見ると、会計課と人事課のさらに向こう側にある事業企画課の中のひとつの「シマ」が、無人になっていた。直轄チームと同じく、七、八人で構成される渉外班がある場所だ。彼らは日垣より一歩早く、防衛省が所有するマイクロバスにでも乗って現地に向かったのだろう。
その一行の中には、つい先日の昼休みに女子更衣室で吉谷や大須賀とにらみ合った八嶋香織も、いるはずだ。
どこの大使館の食事が美味いか、という話題で「直轄ジマ」が盛り上がる中、美紗は一人、八嶋のことを思った。
彼女が日垣貴仁に興味を持っているとは、にわかには信じ難かった。しかし、大須賀の言うように、もし八嶋が彼に何がしかの好意を抱いていたとしたら……。
後から第1部長直轄チームに入ってきた美紗を、彼女は決して快くは思わないだろう。これまで一年余りの間、全く会話することすらなかったのも頷ける。
その八嶋はこの夜、フランス大使館で、日垣と吉谷が並ぶ姿を目にするのだろうか――。
その日の仕事を終えた美紗は、早めに事務所を出た。日垣貴仁を「お気に入り」だと公言する大須賀恵から、第8部主体の「女子会」に来ないかと声をかけてもらっていたが、用事があるなどと適当な嘘を言って、断っていた。
細かい雨が降る中、美紗は通いなれた道を独り、とぼとぼと歩いた。
金曜日の夜なのに、日垣貴仁がいない
週末の夜を一人で過ごすのは、特に珍しいことではなかった。第1部長のスケジュールは、しばしば、仕事のみならず、酒好きな同期達との会合で埋められる。
そんな時、美紗はたびたび、一人で馴染みのバーに足を運んだ。
シックな店の雰囲気にはあまり似つかわしくない童顔の客を、マスターはいつも快く迎えてくれた。
カウンターの隅の席で、マスターはじめ数人のバーテンダーが美しいカクテルを作るのを眺めたり、大海に小さな宝石を散りばめたような夜景を見ながらぼんやりと彼を想ったりする時間は、それなりに心地が良かった。
しかし、今夜ばかりは、彼を想えば、彼に付き添う女の姿を思い出さずには、いられない。
最初のコメントを投稿しよう!