5-5 きらびやかな蝶 

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 梅雨冷えの夜が、七月とは思えない寒々しさで美紗を覆う。気を張っていないと立ち止まりそうなほど、惨めだった。  こんな気持ちになるのは、おそらく四年ぶりだった。  初めてそれを味わったのは、大学の二年次が終わった春休みだった。  前年の秋に父親が失職し、悩んだ末に、在席する大学に給付型奨学金を申請した。しかし、審査に落ちれば、退学以外の選択肢はない。勉強一筋にやってきた訳ではないが、それでも、これまで積み上げてきた努力や温めてきた夢があっけなく霧散するのかと思うと、無自覚のうちに、心が荒み、隙ができた。  少し仲が良かった程度の男子学生から強引に誘われ、それを拒否する強さがなかった。諦念にも似た感情に支配されながらの初めての体験は、終われば悔恨の感覚となって心に刻みつけられた。  二度目は、その男と別れた時。  相手が美紗に強い好意を寄せていたのは間違いなかったが、同級生のその彼は、あまりにも幼稚だった。無事に奨学金を得て勉強とアルバイトに勤しむ美紗を傍らで見守ることなど、とうていできなかった。  美紗が経済的な理由でそうしなければならないことを知った彼は、美紗に面と向かって「大学を辞めて自分と結婚すればいい」と言った。  まだ実社会も知らない人間の手の中に、すべての将来を放棄して捕らわれろというのか。侮蔑的に聞こえたその言葉は、同時に、実家で自堕落に暮らす自分の父親を彷彿とさせた。  初めて身体を許した相手に嫌悪感を覚え、会うのが辛くなった。ますます距離が開くと、三年次の夏休み前には、男のほうから離れていった。  自分を好きだと言ってくれた人間でさえ、望む通りに自分を受け止めてくれはしない。至極当然の現実を、そんな形で思い知った。  そして三度目は、独りになって半年ほど経った頃。母親があの言葉を口にするのを聞き、帰るべき家を失った時だ。 『美紗が生まれなければずっと働いていられたのに』  過去にやってきたことも、夢も思い出もすべて、その一言によって否定されたような思いがした。正月休みも終わらぬうちに実家から大学の寮に戻る電車の中で、涙がこぼれるのを堪えることができなかった。おそらくそれが、これまで生きてきた中で最も情けない時間だった。  四年次に入るまでに立ち直ることができたのは、歩むのを止めれば「終わり」だと確信していたからだろう。立ち止まれば、自分の未来を支え励ます者のいなくなった家の中に、閉じ込められるだけだ。  それから後は、思い悩む暇すらなかった。生きる場所を探すために、就職活動をした。帰る場所がないという恐怖を忘れたくて、ただ働き続けてきた。立ち止まることも、逃げ出すことも、考えられなかった。  そんな日々に、日垣貴仁は、安らぎをくれた。  それだけで、十分だった……はずなのに
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