5-5 きらびやかな蝶 

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 耳障りな警告チャイムとともに、ドアが開いた。自宅の最寄り駅ではない、しかし、すっかり馴染みとなった駅に着いていた。  美紗は反射的に地下鉄を降りてから、ここに来てどうするのだろう、と思った。いつもの店に行きたいわけではない。それでも、足は勝手に「いつもの出口」へと向かい、「いつもの階段」を上り始める。  今日は彼を想いたくはないのに。  彼の横で「奥様代理」を務める吉谷綾子のことを、考えたくはないのに……。  日垣貴仁と吉谷綾子は、わずかな期間ながら、第8部で共に勤務している。情報という仕事を通じて知り合ったのは、それよりもっと前かもしれない。  吉谷は間違いなく、美紗の知らない「過去の日垣貴仁」を知っている。  防衛駐在官になる前の、2等空佐だった頃の彼を。  もしかしたら、さらに若い頃の彼を。  彼女は、統合情報局第1部長となった日垣の印象を「何となく怖い」と美紗に語っていた。 『それなりにやり手の人だなとは思ったけど、1部長として戻ってきてからは……あの人、余裕で裏表を使い分けるタイプになったなって感じて』  過去のあの人は、どんな人だったのだろう。その時、あの人と吉谷は、どういう関係だったのだろう。 『昔は隠れ家的なお店をひとつ持ってたみたいだったけど』  十年ほど前、情報畑でキャリアを積んでいた日垣が、まだ独身だったかもしれない吉谷に、仕事上のパートナーとして信頼を寄せるのは、極めて自然なことのように思えた。  その信頼関係の中に、いくばくかの好意が醸成されていたのかは、分からない。  二人が、いつものあの店で、もしかしたら、いつものあの席で、親しく語り合うことがあったのか、それを知る術は、ない。 fd0c0ce0-55c2-4016-94c9-764c6d94be83  地上に出ると、再び冷たい湿気が美紗にまとわりついた。傘をさしても、目に見えないほど細かい水滴が、夏物の薄いスーツを重くしていく。  憂鬱な雨を嫌ってか、人通りはいつもの金曜日より少なかった。かわりに、四車線の大通りを行きかう車の数が、やや多いような気がする。  道路の反対側にある五十五階建ての高層ビルを左手に見ながら少し歩くと、すぐに、いつもの細い脇道と交差するところまで来てしまった。
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