5-5 きらびやかな蝶 

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  『若い鈴置さんが私の奥さん役では、あまりに可哀想だ』  ふと、日垣が以前に口にしていた言葉が思い出された。  週の初め、直轄チームで問題のレセプションの話題になった時、彼は少し困ったように笑って、そう言っていた。  今になって、そのセリフが、さりげなく何かを拒絶しているかのように、聞こえる。  月に数回、美紗と日垣貴仁がいつもの店で数時間を共有するようになってから、八カ月ほどが過ぎていた。その間、いろいろなことを話した。仕事の話ばかりだったはずが、いつのまにか、互いのプライベートに触れるようになっていった。  過去の思い出、将来の夢、そして、家族のこと……。  日垣貴仁は、美紗が抱えるものすべてを、静かに、抱きとめてくれた。  重みがひとつ消えるたびに、空いたその場所は、彼への想いで埋まっていく。初めて経験する至福の過程。  しかし、心が彼で一杯になってしまったらどうなるのか。そんなことは、これまで考えたこともなかった。 『若い鈴置さんが私の奥さん役では……』  年が離れているから。そんな理由を付けて、これ以上は近づいてくれるなと言いたかったのか。彼は、美紗自身が自覚するより早く、当人の心を察していたのだろうか。 『相手があんな若いのだったら、下手な行動に出られないように心理的にコントロールするのだって、きっとお手のもの……』  吉谷が、八嶋香織を引き合いに出して言った言葉が、今は、違う意味にも解釈できる。  私が吉谷さんくらい年を重ねていれば、もっとあの人の傍にいられるのに  私が吉谷さんくらい経験豊富だったら、もっとあの人に信頼してもらえるのに  私がもっと大人だったら、あの人を警戒させることはなかったのに  私が――  色鮮やかな蝶が、夜の街を華麗に飛び回り、嫉妬の煌めきをまき散らす。    いつもの細道を通り過ぎ、そのまま明るい大通りをぼんやりと進んだ。  交差点で、信号に行く手を阻まれた。多くの傘が大通りを横切る。道路の向こう側へと歩く人並みのほとんどは、頭上に覆いかぶさるようにそびえる高層ビルを目指している。  その動きに流されるかのように、美紗も体を左に向けた。  点滅する青信号に急き立てられるように横断歩道を渡り、ふと顔を上げると、白い光が目に入った。細長く伸びるそれは、いよいよ間近に迫る高層ビルとそれに付随するショッピングエリアの敷地を縁どるように、ずっと奥まで続いていた。  白い柔らかな色が、細かい雨に、滲む。  美紗は、零れ落ちそうなっていた涙を、指でぬぐった。
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