5-9 新たな女 

2/10
前へ
/320ページ
次へ
  「吉谷さんのほうがいいなんて、あの人は……。そんなの、納得できません!」 「良い悪いという話では……」  美紗は、手にしていた書類ファイルをぎゅっと抱きしめた。以前、大須賀が奇妙なことを言っていたのを、急に思い出した。 『……八嶋さん、実は自分が日垣1佐を狙ってたりとか!』  まさか、こんなところで、告白……?  それにしては険悪な空気だ。告白、というよりは、すでにそれなりの関係にある二人の人間の口論、というほうが近いかもしれない。 「理由を教えてください。私が至らないところは努力します」 「だから、そういうことじゃないんだ。それに今更……」  壁越しでは、日垣の低い声は切れ切れにしか聞こえない。美紗がもう一度顔を出そうとした時、エレベーターの到着を知らせるチャイムが鳴った。  慌てて階段側に身体を引っ込めると、数人がエレベーターの中から出てくる靴音が聞こえた。その中の一人が日垣に話しかけている声がする。  少しの間、男性二人のやり取りが聞こえ、やがて、複数の足音は第1部の部屋の中へと消えていった。 「八嶋さん、この件はまた後で」 「待ってください。最後まで聞いて……」 「悪いが、急ぎの話がある。後にしてくれ」  日垣がため息交じりに応えるが、八嶋は引き下がろうとしない。 「後って、いつならいいんですか? もう時間がないじゃないですか」 「話をしてどうにかなる問題じゃない」 「結局、私はずっと、今のままなんですか……」  冷静さを欠いた高い声が、急に止まる。  どうしたのだろう。美紗が、再び階段出口から顔を半分ほど出すと、八嶋が日垣のほうに半歩ほど歩み寄り、口元を抑えてうつむくのが見えた。  ショートボブの黒髪が、完全に彼の制服に触れていた。  美紗の身体の中を、冷たい何かが、ずるりと流れ落ちていく。  八嶋香織は、下を向いたまま、何か喋っていた。しかし、手で口を覆っているせいで、その内容までは分からない。彼女の声より、美紗自身の心臓の音が大きくて、言葉も何もかき消される。 「分かった。細かい話は――、明日……」  さらに声を落とした日垣の言葉は、ますます聞き取れない。八嶋は小さく頷いている。泣いているようにも見える。 「……いつもの……来てくれれば……」  そう囁くように言って、日垣は一歩身を引いた。八嶋はそれで納得したのか、無言で第1部長に一礼し、固いヒールの靴音を残して、どこかに去っていった。  翌日は金曜日だ。特段の用がなければ、日垣貴仁が「いつもの店」を訪れる。  重い足音もその場からゆっくりと遠ざかっていく。  やがて、エレベーターホール付近は完全に無音になり、階段出口の壁に張り付くように立ちすくんだ美紗だけが、そこに取り残された。
/320ページ

最初のコメントを投稿しよう!

746人が本棚に入れています
本棚に追加