5-9 新たな女 

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 八嶋香織も、日垣の行きつけのバーに通っていたのだろうか。美紗がしばらく顔を出さない間に、彼女が「いつもの席」に座り、彼と共に、あの夜景を見ていたのだろうか。  それとも、美紗より一年半ほど長く第1部に在籍する八嶋の定位置を、美紗のほうが奪っていたということなのだろうか。 『……まさか、すでに二人こそこそ付き合ってるなんてことないですよね?』  以前に女子更衣室で騒いでいた大須賀の言葉が、頭の中で反響する。吉谷は彼女の推測を笑い飛ばしていたが、八嶋は先ほど、その吉谷の名を口にしていた。 『どうして私じゃダメなんですか。……吉谷さんのほうがいいなんて……』  吉谷綾子と八嶋香織は、日垣をめぐり、対立する関係だったのか。  日垣貴仁は、吉谷を軸に、八嶋と美紗を天秤にかけ、弄んでいたのか。  そうは思えない。思いたくない。  すっかり強張った身体を引きずりながら、美紗がようやく直轄チームに戻ると、「直轄ジマ」はすでに無人となっていた。いつもならメンバーの半数近くが九時近くまで残っているのだが、盆休みが間近だからなのか、出勤組もさっさと帰宅してしまったらしい。  美紗は慌てて事務所内を見渡した。八嶋香織の姿はなかった。  日垣は、「直轄ジマ」から少し離れたところにある、第1部共通の応接エリアにいた。人事課長と何やら顔を突き合わせて話し込んでいる。先ほど日垣が「急ぎの話」と八嶋に言っていた件に関することかもしれない。  美紗は、第5部との調整事項で生じた処理業務を急いで済ませると、逃げるように第1部の部屋を出た。  昼間の熱気を残す真夏の都会の夜は、窒息しそうなほど不快な空気に満ちていた。防衛省の正門を出てすぐの三差路で信号を待ちながら、美紗は、頭の中でまとわりつく八嶋香織の言葉に、顔を歪めた。 『私はずっと、今のままなんですか……』  八嶋の言う「今のまま」は、何を意味するのだろう。吉谷をライバル視しているらしい彼女は、いつ、どこで、日垣と逢瀬を重ね、現在はどのような関係を持っているのだろう。  情報局の「主」と言われる吉谷ですら承知していないのだから、美紗には全く想像もつかない。  ただ一つ確かなのは、八嶋香織は「今のまま」に不満を抱いているということだ。  伝えないままでいい  想われないままでいい  あの人との「今のまま」を守りたい  そう思っていたのに  信号が変わり、美紗はゆっくりと横断歩道を渡った。湿気で空気が重いせいか、周囲の街路樹や建物が、水の中に沈んでいるかのように、揺らめいて見える。
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