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美紗は、せっかく淹れたコーヒーを机の端に置いたまま、パソコンの液晶画面をぼんやりと見つめた。画面には第5部が作成した情勢日報が表示されていたが、美紗の目は、全くその内容を追っていなかった。
今になって、八嶋香織に対する不快な感情が、じわじわと湧き起こってきた。
一か月ほど前、日垣貴仁の「奥様代理」として大使館のレセプションに向かう吉谷綾子を見送った時に胸の中に抱いたものとは、全く違う、漠然とした負の感覚。羨望でも、嫉妬でも、劣等感でもない何かが、美紗の思考を侵食する。
どうして、あんなことができるの?
想いを伝えれば、あの人を困らせてしまうだろう。真面目なあの人は、離れていってしまうだろう。だからこそ沈黙を選択した美紗に、八嶋香織の言動は全く理解できなかった。
八嶋は、自身の思うところを、相手に大胆に叩きつけていた。相手の立場も顧みず、職場であろうが人目があろうが、お構いなしだ。想う相手に対して、躊躇なく独りよがりの態度を取れることが、信じられない。
そんな八嶋に、日垣は囁くように言っていた。
『……明日、……いつもの……来てくれれば……』
明日、いつもの店に、来てくれれば――。彼はそう言ったのだろうか。
美紗は、奇妙な息苦しさを感じて、大きく息を吐いた。自分が何かを言う立場にないことは分かっている。それでも、理不尽なものを感じずにはいられなかった。
あんな人が、いつものお店に行くの?
あんな人が、いつもの席に座るの?
あんな人が、日垣さんと一緒に――
八嶋香織への憤りは、未来の航空幕僚長と目される日垣の評判に傷を付けた彼女の行為に対する嫌悪感から生じているのか。
それとも、彼女のように想う相手に心の内を堂々と晒す度胸のない自分に向けられた腹立たしさから転じたものなのか。
それすら分からないことが、ますます、苛立たしい……。
電話の呼び出し音が、暗く淀んだ美紗の思考をかき消した。「直轄ジマ」の若手三人の机の境目に置いてある内線電話を取るのは、普段は美紗の仕事だったが、この時は雑念に邪魔されて、一歩遅れた。
指揮幕僚課程の二次試験を控えて気合の入る1等空尉が、素早く受話器を取り上げた。
「統合情報局第1部直轄チーム、片桐1尉です」
爽やかに応答した彼は、「日垣1佐ですか?」と言って、机の上に散乱した回覧物の中から、統合情報局幹部の行動予定表を引っ張りだした。
「あいにく、今日から休暇に入っていまして、戻るのは来週の金曜日です」
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