5-10 新人のバーテンダー 

5/9
前へ
/320ページ
次へ
  「当店で、何かお気に召さないことがございましたか」  物腰柔らかなバーテンダーは、しかし、ビジネスライクな口調で矢継ぎ早に問いかけてくる。 「私はきっと、……邪魔だから」 「そのようなことは、ございませんよ」  美紗は、再び頭を振り、耐えかねたように言葉を吐き出した。 「少し前まで、私と一緒に、ここに来ていた人が、いたんです。でも、その人が本当に連れて来たいのは、私じゃないかもしれないと、思って」  カウンターを挟んで真向かいに立つバーテンダーにようやく聞こえるほどの小さな声は、感情を抑えきれずに震えていた。 「私は、その人の、迷惑になりそうだから……」 「ずいぶん、お優しい、というか、及び腰なんですね」  柔らかみのある声が、不躾な言葉で美紗の心をえぐる。「接客に慣れていない」というマスターの評は、やはり間違いないらしい。  美紗はカクテルグラスから離した手をぎゅっと握りしめた。目の前にある青いカクテルが滲み、青と紺の合間のような色が、ぼんやりと広がっていく。  心の中で想うだけ、決して伝えずに想うだけ  想われることもなく、気付かれることすらなく  やがて、遠くなり、忘れられる 「身を引いてしまって、貴女はそれで、よろしいのですか」  美紗は、肩までかかる黒髪をわずかに揺らした。遠慮のない問いかけは、日垣に食ってかかるように話していた女性職員を彷彿とさせた。  想う相手より、相手を想う己のほうを大切にしているであろう八嶋香織。あんな人に、彼を奪われてしまう。相手の体面に配慮することもできない女のために、大切な「隠れ家」を失ってしまう。  しかし、沈黙を守ると決意した美紗には、なす術がない。 「身を引く……というより、初めから、そんな関係じゃ、ないんです。その人とは、時々ここで、お話をして、それだけだったから」 「それ以上は望んでいらっしゃらないのですね」 「……ここで会えるだけで、良かったから。そうじゃなきゃ、いけないから」  美紗の目から、またぽろぽろと涙が落ちた。  日垣に連れられて、初めてこの店に来た時のことが思い出された。あの時も、涙を隠さずに泣いた。彼は、小さな嗚咽が聞こえなくまるまで、ずっと待っていてくれた。  優しい沈黙をくれた彼が、耐えがたく恋しい。 「一緒にいたいけど、でも、私からは……言えないんです。その人は、私よりずっと年上だし、それに……」
/320ページ

最初のコメントを投稿しよう!

746人が本棚に入れています
本棚に追加