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「当店で、何かお気に召さないことがございましたか」
物腰柔らかなバーテンダーは、しかし、ビジネスライクな口調で矢継ぎ早に問いかけてくる。
「私はきっと、……邪魔だから」
「そのようなことは、ございませんよ」
美紗は、再び頭を振り、耐えかねたように言葉を吐き出した。
「少し前まで、私と一緒に、ここに来ていた人が、いたんです。でも、その人が本当に連れて来たいのは、私じゃないかもしれないと、思って」
カウンターを挟んで真向かいに立つバーテンダーにようやく聞こえるほどの小さな声は、感情を抑えきれずに震えていた。
「私は、その人の、迷惑になりそうだから……」
「ずいぶん、お優しい、というか、及び腰なんですね」
柔らかみのある声が、不躾な言葉で美紗の心をえぐる。「接客に慣れていない」というマスターの評は、やはり間違いないらしい。
美紗はカクテルグラスから離した手をぎゅっと握りしめた。目の前にある青いカクテルが滲み、青と紺の合間のような色が、ぼんやりと広がっていく。
心の中で想うだけ、決して伝えずに想うだけ
想われることもなく、気付かれることすらなく
やがて、遠くなり、忘れられる
「身を引いてしまって、貴女はそれで、よろしいのですか」
美紗は、肩までかかる黒髪をわずかに揺らした。遠慮のない問いかけは、日垣に食ってかかるように話していた女性職員を彷彿とさせた。
想う相手より、相手を想う己のほうを大切にしているであろう八嶋香織。あんな人に、彼を奪われてしまう。相手の体面に配慮することもできない女のために、大切な「隠れ家」を失ってしまう。
しかし、沈黙を守ると決意した美紗には、なす術がない。
「身を引く……というより、初めから、そんな関係じゃ、ないんです。その人とは、時々ここで、お話をして、それだけだったから」
「それ以上は望んでいらっしゃらないのですね」
「……ここで会えるだけで、良かったから。そうじゃなきゃ、いけないから」
美紗の目から、またぽろぽろと涙が落ちた。
日垣に連れられて、初めてこの店に来た時のことが思い出された。あの時も、涙を隠さずに泣いた。彼は、小さな嗚咽が聞こえなくまるまで、ずっと待っていてくれた。
優しい沈黙をくれた彼が、耐えがたく恋しい。
「一緒にいたいけど、でも、私からは……言えないんです。その人は、私よりずっと年上だし、それに……」
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