6-1 夏季休暇 

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  『その方の価値観に、ご自身を委ねてみてはいかがですか』  藍色の瞳のバーテンダーは、前と同じように店に来ればいい、と言っていた。怯えずにあの人を大切に想えばいい、というようなことも言った。  それは、一歩を踏み出せという意味なのか。  あの人が許容するギリギリのところまで、想うままに飛び込めということなのか。 『限りある時間を、後悔のないように、お過ごしになってください』  バーテンダーの言葉のとおり、あの人の傍にいられる時間は限られる。幹部自衛官は、基本的に全国転勤が前提になっているからだ。  別れの時が、彼の異動というさほど遠くない未来に訪れるのか、それとも、八嶋香織という女によって今すぐにもたらされるのか。違うのは、そこだけだ。  美紗は小さなため息をついた。日垣貴仁がいずれ手の届かないところへと去っていくことは、初めから決まっている。同じ結末しか用意されていないと分かっていて、行動することに何の意味があるのだろう。 『日垣さん、安心したような、少し寂しそうな、お顔をしていましたね』  名も知らぬバーテンダーに続いて、意味深なことを口にしたマスターの物静かな笑顔が浮かぶ。  日垣は、いつもの店に行かなくなった美紗のことを、少しは気にかけてくれたのかもしれない。しかし、安堵した顔を見せたらしい彼の真意は、どこにあるのだろう。  美紗は顔を上げ、無人の第1部長室を見やった。  前の週の金曜日から一週間の休暇を取っていた日垣は、Uターンラッシュを避けるために、敢えて週末を待たずに東京に戻る日程を組んでいた。  明日、彼は第1部に姿を見せる。そして、明日は金曜日だ。不在間に溜まった細々とした用事を片付けた後、彼はおそらく、いつもの店に足を運ぶに違いない。  再び「隠れ家」を訪れることを、あの人は好ましく思ってくれるだろうか。傍にいたい、と態度で示すことを、あの人は受け入れてくれるのだろうか。  いつもの店に行くべきか、明日までにはとても決められないような気がして、美紗はまた嘆息した。  あの人の価値観を試すような真似をするのは、怖い  試して、拒絶されて、  それまでの日々をあっさり思い出にできるほど  私はたぶん、大人じゃない  唇から三度めのため息が漏れる。 「鈴置さん、夏バテえ?」  底抜けに明るい声と共に、小坂がいたずらっぽい笑顔を寄せてきた。
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