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「これはあくまで『打診』と受け取ってくれていいのだけど、うちでやってみようという気はないかな」
美紗は驚いて、物静かな顔立ちの第1部長を見つめた。
「本当は、地域担当部で専門性をじっくり高めるほうがいいんだろうが、鈴置さんは……英語以外の語学は経験なしだったね」
日垣は、美紗の人事情報が書かれているらしい紙を見ながら話した。
「技術関係のところは経験の浅い事務官にはとっつきにくいし、地域担当部所属の英語専門職は、英語圏に在住経験のある者が優先的に配置されているから、ちょっと厳しいな。鈴置さんは、留学も特にしていないようだね」
「行きたかったんですが……」
美紗は、沈んだ声で、学生時代に叶わなかった夢を話した。
大学に入学後、すぐに一年間の海外留学を希望して勉強を始めたが、二年時になって父親が失職した。退学の憂き目には合わずにすんだが、それ以後は、卒業までの学費と生活費を奨学金とアルバイトで捻出しなければならなくなり、留学どころではなくなってしまった。
自分の落ち度ではない要因でチャンスを逸したことが、後々のキャリアに不利に影響していく。景気の安定しない世の中で、美紗のような不運な若者は珍しい存在ではなかった。
「情報局にいれば、研修の枠組みで海外留学か海外勤務のチャンスもある。キャリアパスの一環として、成績優秀な職員を、海外の軍事関係の教育機関や我が国の在外公館に派遣する制度があるんだ。君が希望する留学とはちょっと違うかもしれないが……興味はある?」
美紗は目を輝かせた。隣に座る松永がつられて嬉しそうな顔になるのをちらりと見た日垣は、急に柔和な笑顔を消し、
「もちろん、上司の推薦を受けられるだけの結果を出すのが先だ」
と、厳しい口調で付け加えた。
切れ長の目で見据えられ、美紗は心細そうにまた下を向いた。松永が慌てて美紗を励ました。
「大丈夫だ。あなたは筋は悪くなさそうだし、仕事のやり方はきちんと指導するから」
美紗はわずかに涙目になりながら、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「では決まりだ。明日から鈴置さんには私の直轄チームに入ってもらう。人事的な話はこちらで処理しておくから、彼女が仕事に慣れるまでは、松永3佐、サポートよろしく頼むよ」
「自分がですか?」
「鈴置さんを指導するって、さっき言っただろう」
イガグリ頭の3等陸佐は、はあ、と間の抜けた返事をした。将来の航空幕僚長と噂されるこの第1部長が若手に急に手厳しい発言をする時は、必ず何か魂胆があることを思い出した。
今回はこの若い女性職員の面倒を見ると自分に言わせたかったらしい、と気が付いたが、もう手遅れのようだった。
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