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「いえ、でも、まだお仕事の途中ですから」
「もう九時過ぎだし、人もあまり残っていないから、一本ぐらい構わないだろ? ここは残業代をあまり出してやれないから、休み休みやってもらわないと、なんだか申し訳なくてね」
残業の概念がない自衛官と異なり、事務官の美紗には残業手当が付く。しかし、残業手当の総額は予算で決められているため、概して業務過多な職場では、残業する者同士で予算を食い合う格好になってしまう。
統合情報局では、実際の残業時間の三割分も出ればいいほう、と言われていた。
しかし、当の美紗は、残業代など気にかけるような余裕はなかった。
「私はまだ勉強させていただいているばかりなので……。ちっとも役に立ってなくて、私のほうが申し訳ないです」
「そんなに気負ってると、後が続かないよ」
日垣は肩をすくめ、自分が先に一口飲んだ。
美紗は、恥ずかしそうに縮こまっていたが、やがて、缶の蓋を開けた。特に珍しい銘柄でもない缶ビールの味が、不思議とさわやかに感じた。
人影もまばらになる夜のオフィスで、日垣は美紗に、たびたび職場の裏話を面白おかしく聞かせてくれた。
目鼻立ちの通った精悍な顔立ちに似合わず、内容はいつも結構ドロ臭い。上層部の滑稽な人間関係、ウマイ仕事と損な仕事の見分け方、真面目にやっているだけではどうにもならない組織の不条理。
そして、いわゆる「勝ち組」になれるか否かを決めるのは「結局は実力より運だ」と、日垣は話した。
「私は運だけは最強でね。任官以来、部下にだけは常に恵まれているよ。君も含めてね」
お世辞と分かっていても、美紗は恥ずかしくなるくらい嬉しかった。
時には、日垣のほうが美紗に愚痴をこぼすこともあった。
管理職の仕事はどの組織においてもストレスが多い。人・物・カネをめぐる醜い争いもあれば、己の管理する組織を守るために些細な問題で責任を押し付けあうこともある。特に、防衛省を含む「お役所」は、概して縦割りで縄張り意識が強く、他の部署、他の機関と、日々勢力争いを繰り広げている。
しかし、美紗に仕事の愚痴話をする日垣は、なぜかいつも楽しそうだった。そして、ひとしきり話すと、必ず最後に、
「君は、細かい話をいちいち説明しなくても分かってくれるから、話していて本当に気持ちが和むよ」
と言って、部長室に戻っていった。
日垣の背筋の伸びた後姿を見送る美紗は、不思議と一日の疲れがすうっと消えるのを感じていた。
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