序 章 マティーニの記憶

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 夜空が闇の色を濃くしていく中、安全柵の向こう側に広がる街灯りだけが、ますます輝きを増して、美紗の心を苛んだ。あの光を美しいと思いながらあの人と一緒に眺めたのが、もう何年も、何十年も昔のことのように感じられる。  美紗は耐えきれずに両手で顔を覆った。はるか下からぼんやりと聞こえてくる都会の喧騒が、かろうじて嗚咽の声を掻き消してくれた。  先ほどのバーテンダーが勤めているのであろうそのバーは、あの人の行きつけの店だった。あの人に連れられて、美紗が初めてその店を訪れたのは、もう二年半も前のことだ。  照明を落とした店内で、憂い顔の美紗を「いつもの席」に座らせたあの人は、テーブルに置かれた小さなメニューを手に取り、 「アルコールは弱くなかったよね。好きなものはある?」  と、静かに聞いた。  美紗は、ためらいがちに、マティーニを指さした。  あの人の優しいまなざしも、耳に心地よい低い声も、少しキツめのカクテルの味も、まだ鮮明に覚えている。  ひとしきり静かに泣いた後、静寂に気付いた美紗は、顔を上げ、頼りない月明かりに照らされた屋上を見回した。  バーテンダーの姿は、いつの間にかなくなっていた。屋内に通じる扉は開いたままだったが、周囲には誰もいない。  変なところを見られなくてよかった、と、美紗は安堵した。そして突然、なぜ自分はここにいるのだろう、と思った。  この屋上に来るまでのことを思い出そうとしたが、一時間ほど前からの記憶がすっぽり抜け落ちていた。一つだけ確かなのは、明日を迎えたくないという思いで、ずっと胸がつぶれそうになっていることだった。  最期にあの人との思い出に浸るつもりで、ここに来たのだろうか。  最期のマティーニを飲みたかったのだろうか。  でも、もういい。  思い出も、自分自身も、すべてを闇夜に消してしまいたい。 「お待たせしました。店、開けましたよ」  横からふいに割り込んできた黒い影に、視界を奪われた。  月明りを遮ったそれが先ほどのバーテンダーだと気付くまでに、数秒の時間を要した。互いの体が接するほど近い位置に立つそのシルエットは、意外にもかなりの長身だった。  あの人と同じくらいの背丈だ…… 美紗は胸がつきんと痛むのを感じた。 「今日はお一人様でよろしいですか。ご案内いたします」
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