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月の光の下に露わになったバーテンダーの男の顔には、先ほどの初々しい表情が全くなくなっていた。美紗よりもずっと年上の人間が持つ、成熟した雰囲気が漂う。
「でも、あの、今……お金を全然……」
言いかけて、美紗は狼狽を隠せず口ごもった。ビジネススーツを着ているのに鞄も持たない一文無し、というのはいかにも不自然だ。
しかし、バーテンダーは、にこやかな営業スマイルのまま、さらに美紗を誘った。
「当店も先週、スマホのカード決済サービスを入れたんですよ。そういったものは、普段ご利用ではありませんか?」
美紗は、バーテンダーの質問に「いいえ」と短く答え、足元に目をやった。靴を脱いだ時にIC定期券と一緒に置いたと思っていた携帯端末は、どこにも見当たらなかった。
「携帯、失くしちゃったみたい……」
美紗は他人事のように呟いた。
「それは大変ですね。今から探しに行かれますか?」
そう言うバーテンダーのほうも、のんきな口ぶりだった。まるで、美紗が紛失した携帯端末を探す気がないことを、承知しているかのようだ。
「明日でいいなら、今日は是非、うちで飲んでいらしてください。常連さんならツケ払いで結構ですから、ご心配なく」
気取った笑みを浮かべたバーテンダーの提案に、美紗はわずかに首を横に振り、NOの意思表示をした。
自分には後で支払いに来る機会はない。
しかし、会ったばかりの人間に対して、それを口にするのはためらわれる。
沈黙したまま、美紗は、小さく一歩、また一歩、と後ずさった。さっきまで痺れたようになっていた足が普通に動くことを確かめると、バーテンダーに背を向け、ビル内に通じる入口へと走った。
軽い足音が暗闇に響く。
大きく開けられたドアの脇を通って屋内に飛び込んだ美紗は、転びそうになりながら、狭い階段を駆け下りた。
踊り場まで降りたところで、白いものが行く手を遮った。階段の手すりに右手をつき、やや身をかがめたバーテンダーが、鋭い目で美紗を見据えていた。白いシャツの袖口から出る骨太い手は、片手で小柄な女一人の動きを容易に封じられそうなほど大きかった。
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