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「私は……、何も、してません」
「なら、逃げる必要はないだろう」
日垣は、美紗に一歩近寄ると、壁側を向いて両手をつくよう求めた。
「悪いが、他に妙な物を持っていないか、調べさせてもらう。さっきのUSBがダミーということもあるからな」
「そんな物、何も持って……」
「壁に向かって立て。足を肩幅に開いて、両手を壁につくんだ」
抑えた声が有無を言わさぬ強さで迫った。
美紗は、言われた意味を理解しないまま、ゆっくりと体を回し、壁のほうへ向いた。手をあげると、先ほど日垣に捕まれた左腕がつきんと痛んだ。
日垣は無言で、華奢な体を軽くたたくように触れていった。大きな手が衣服の上から手際良く、しかし、あらゆる場所を容赦なく探っていく。
一瞬の躊躇もないその所作は、美紗を明らさまに犯罪者として扱っていた。
初めて受ける汚辱に、小柄な身体は小刻みに震えた。強烈に湧き起こる恐怖と不快感で、気が遠くなる。足の力が抜け、体が崩れ落ちた。
冷酷に自分を取り調べる男の声が何か言うのが聞こえるが、頭の中でそれが幾重にも反響して、意味を取ることができない……。
一瞬の喪心から回復した美紗は、自分が階段の踊り場でへたり込んでいるのに気付いた。
片ひざをついた日垣が、目の前に紙の束を差し出している。議事録取りに入ったセッションで使われたブリーフィング資料一式と、美紗が書いたメモ書きだった。
「君が本物のスパイなら、実に大した演技力だ。二年以上も省内に潜んで情報局に配置されるチャンスを待ち続けていたとは、誰が予想できる? 気の弱そうな素振りも、素人然とした態度も、完璧じゃないか」
陰険な言葉を、美紗はぐったりと聞いていた。言い返す気力もなかった。
「他の物はしばらくこちらで預からせてもらう。君は自席に戻って、比留川に言われていたとおりのことをやれ。USBは私に貸したとでも言っておけばいい」
日垣は、手に持っていたものを美紗に押し付けると、残りが入った書類ケースを持って立ち上がった。
スパイ嫌疑をかけた相手に仕事を続けさせて、どうするつもりなのだろう。しかし美紗には、彼の指示に従う以外に選択肢はない。
足に力が入らない。無理やり立ち上がろうと左手を床につくと、左腕全体に痺れるような痛みが走った。美紗は、かすかに声を漏らして、身を丸めた。
「立てるか」
いつも聞きなれている穏やかな声と共に、大きな手が差し出された。ついさっき、美紗を犯罪者のように調べた、骨ばった手――。
「やめて! 来ないで!」
美紗はひきつった顔で後ずさった。差し出された手も、優しそうな顔も、作り慣れた嘘だ。濃紺の制服を着た男に近寄られるのが恐ろしかった。これ以上、嘘に穢されたくない。
美紗は書類を左手に持ち替えると、右腕に体重をかけてなんとか立ち上がった。
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