3-7 スパイ嫌疑 

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  「回答期限は『今日中』なんだから、日付の変わる一分前に持ってきゃ文句言われんよ。海幕の奴らはどうせ二十四時間営業なんだし。そんなカリカリしなくていいだろ」  同じ案件で、技術情報を扱う第9部との調整を担当していた比留川2等海佐は、珍しくのん気な口調で二人の間に割って入った。普段、毒舌の多い直轄班長は、ナンバー2である松永の機嫌が悪い時だけは、なだめ役に回るのが常だった。  松永は、「全く」と悪態をつくと、書類が挟まったバインダーを二つ、美紗の机の上に放り投げるように置いた。 「日垣1佐のとこに入れとけ。急ぎじゃないから、未決箱に投げておけばいい。ついでに、顔洗って来い!」  美紗は、ろくに返事もせずにふらりと立ち上がると、バインダーを手に取り、よろめくように第1部長室へと歩いて行った。  それを、「直轄ジマ」の一同が怪訝な顔で見送った。 「あいつ、今日は朝からずっとあの調子だな。使い走りにもならない」 「昨日、うまくいかなかったんすかね?」  とげとげしい言葉を吐く松永をちらりと見ながら、片桐が、斜め左に座る宮崎に小声で話しかけた。  宮崎が顔を上げる前に、比留川が即座にその疑問を否定した。 「そんなことなかったぞ。鈴置の議事録見たが、かなりいい出来だった。まあ、俺は会議そのものには出てないが……。日垣1佐も特に直しなしでOK出したそうだ」 「じゃあ、昨日の疲れだっていうんですかね? でも鈴置の奴、昨日は定時ジャストで帰ったそうじゃないですか。自分に何の報告もなく」  松永は不愉快そうに自分の席に戻った。  前日、米国との情報交換会議の最後のセッションに出た松永は、五時すぎまで長引いた会議の後、建物一階のエントランス付近で顔を合わせた同期につかまり、くだらない人事の噂話に付き合わされた。さほど長話をしたわけでもなかったが、彼が「直轄ジマ」に戻ってきた時には、すでに美紗は帰宅してしまっていた。 「定時で帰るなとは言いませんけど、定時で帰られちまうとは思わないでしょう、普通」 「帰っていいって、日垣1佐が言ったんだろ? 佐伯」 「そうです。『鈴置さん疲れてるだろうから、早く帰してやれ』って」  松永が会議に出ている間に、日垣は、ちょうど美紗が議事録を作り終えた頃を見計らったかのごとく、二度目の連絡を入れてきた。彼は、美紗の仕事の進捗状況を確認すると、出来上がった議事録を部長室に入れるよう指示し、さらに彼女を即刻帰宅させろと命じた。  電話を受けた佐伯は、それを新米職員への単なる気遣いと解釈した。
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