3-7 スパイ嫌疑 

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  「男のこと考えて、ぼーっとしてたのかなあ。それとも、階段で別れ話でも始まって、言い争ってもみ合いになって……」  片桐は、女性職員の「恋の悩み」というネタが頭から離れないようだった。富澤がひそひそ声で彼の見解を否定した。 「それはないな。階段で転んだって言ってたのは昨日の夕方。その前に彼氏に会うってのは、物理的に有り得ないだろ?」 「いや、相手が部内なら、十分有り得る」  宮崎の銀縁眼鏡が自信ありげに光った。 「彼女も入省三年目なんだから、部内にお相手がいたって全然おかしくない。そりゃあ、( こ)()は地方部隊と違って年寄りが多いけど、若いフリーなのが全然いないわけじゃないし。昨日の夕方にでも、部内の彼氏とどっかの階段でばったり会って、そこで別れ話を切り出された、……ってのはどう?」 「彼女、振られる側? 宮崎さんもひどいこと言うなあ」 「情勢分析に情けは無用なの。どう見たって、あの感じじゃ、振るより振られるほうが似合ってるでしょ」 「そっかあ……。彼氏に冷たくされて、追いすがったら振り払われて階段から落ちた、ってわけですか。なるほどねえ」  片桐は勝手に納得すると、一人二役で恋愛ドラマの修羅場を演じて見せた。宮崎がクスクス笑うと、調子に乗った若い1等空尉の声は、つい大きくなった。 「いい加減にしろよ。みんな見てるぞ」  生真面目な富澤に制されて、片桐はやっと黙ると、慌てて周囲を見回した。幸い、第1部長と比留川は、面倒事らしい案件の書類をめくりながら話し込んでいたが、その傍らで、松永と佐伯が片桐を睨んでいた。  「直轄ジマ」に近い総務課と、その向こうの人事課の中にも、片桐のほうに注目している顔がちらほら見える。  片桐は、ヘラヘラと笑いながら、冷ややかな空気をごまかすように視線を泳がせ、そして、ある一点を凝視したまま固まった。 「す、鈴置さん……。まだ、そこにいたんだ……」  ひどく狼狽した声に、「直轄ジマ」にいた一同も、片桐が見る方向に一斉に目を向けた。  彼の席から五、六メートルほど離れたところにある部屋の出入り口で、美紗がドアに張り付くようにして立っていた。蒼白な顔で、何も言わず、ただ「シマ」のほうをじっと見つめている。 「今の、聞こえてたな」 「俺たち、セクハラ?」 「かもな」  小声でささやき合う三人は、美紗と同じくらい血の気の引いた顔色になっていた。  しかし松永は、美紗の目が彼らを見ていないことに気付いた。 「鈴置……、大丈夫か?」  松永は立ちあがると、「ちょっと医務室まで付き添ってきます」と比留川に声をかけ、席を離れた。それとほとんど同時に、彼の背後から大声が飛んだ。
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