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日垣は、暗い道の突き当りにある細長い雑居ビルに入っていった。外観こそ小ぎれいなその建物の中は、決して新しいとは言い難かった。
エレベーターが来ると、日垣は先に乗り、ドアを手で押さえて美紗を待った。明かりの下で、夏物の背広が艶やかな光沢を放っている。
美紗は、吸い寄せられるように、エレベーターの中に入った。
「ここに馴染みの店があってね。隠れ家みたいに使わせてもらっているんだ」
日垣は、最上階となる十五階のボタンを押した。美紗は黙ったまま、エレベーター壁面に貼られたフロア案内を見た。飲食店がたくさん入っているらしいビルの十五階部分は、空欄になっていた。
何があるの……?
美紗は、隣に立つ背広の男を見上げた。職場では見たことのないような和やかな横顔が、ドアの上にある階数表示を、ただ静かに見つめていた。
最上階に着き、エレベーターホールに出ると、事務所のような部屋が二つ並んでいるのが見えた。すでに従業員は帰ってしまっているのか、両方とも部屋の中は暗い。
よく見回せば、事務所名らしき表示はどこにも見当たらなかった。
美紗がいよいよ不信感を募らせる間にも、日垣は人気のない二つの部屋を通り過ぎ、通路を奥へと歩いていく。
ついて行ってはいけない。頭のどこかで、何かが警告する。
階段に突き当たったところで、少し細くなった通路は、左へと折れていた。にわかに人の声が聞こえ始めた。
行き止まりにあったのは、落ち着いた雰囲気のバーだった。壁三面に大きな窓があり、夜の街が一望できる。
L字型の大きなカウンターでは、美しい夜景をバックに、六十代とおぼしきマスターが、カウンターに座る客をもてなしていた。オールバックスタイルの灰色の髪が、穏和そうな顔立ちにいささかの貫禄を与えている。
彼は、日垣を見ると、わずかに頭を下げ、無言で店の奥を指し示した。そして、長身の常連客の影から現れた美紗に、「いらっしゃいませ」と静かに声をかけた。
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