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美紗は子供のように店内を見回した。本格的なバーは初めてだった。
マホガニー調に統一された空間はほどよく暗く、かすかに流れる音楽が訪れる者の心を解きほぐす。マスターのいるカウンターも、テーブル席も、七、八割ほど埋まっているが、客の側もオーセンティックバーの楽しみ方を心得ているのか、シックな空間に溶け込むかのように、穏やかに談笑している。
日垣は、店の奥へと進み、衝立に囲まれた窓際のテーブル席へと歩いて行った。
テーブルの上には、「予約席」と書かれたプレートが載っていた。日垣はそこに躊躇なく座り、美紗に奥側をすすめた。美紗は、言われるままに、肌触りのいいソファタイプの椅子に座った。
左側にある窓から、電気の宝石を散りばめた街並みがよく見える。視線をテーブルに戻せば、小さなガラスの容器に入ったキャンドルが、ほのかに揺らめく光を散らしていた。
「何か食べた?」
「いえ、何も……」
「ここは、普段は食事は出さないが、マスターに頼めば何か用意してくれる。何がいい?」
日垣が言い終わらないうちに、黒の上下を艶やかに着こなすマスターが、メニューを手に、静かに近づいてきた。さほど背の高くない彼は、衝立の向こう側で立ち止まると、客に呼ばれるのを黙って待っている。
日垣は、うつむいたままの美紗にそれ以上聞こうとはせず、手を挙げてマスターに合図すると、いくつかのものを注文した。
マスターが立ち去ると、日垣は急に仕事の顔になった。
「では、君の話の続きを聞こうか」
美紗は、日垣の背後と自分の右脇にある衝立のほうに目をやった。不特定多数の人間が集まる場所で前日の出来事を口にすることに、ためらいと不安を感じずにはいられなかった。
「大丈夫だ。周囲の席は誰も座らないように、マスターが取り計らってくれている。長い付き合いだからね。頼めば、何でもやってくれるんだ」
店の暗い照明にぼんやりと照らされた日垣の顔には、長年情報畑を歩いてきた者の用心深さが滲み出ていた。それが、美紗をひどく委縮させた。
「私も東欧で防駐官(防衛駐在官)をやったが、国防武官や防駐官というのは、平たく言えば現地の諜報関係者の親玉みたいな立ち位置でね。逆に、こちらが現地当局から変なちょっかいを出されることも、時々あった。だから、おのずと身を守る術も覚えたよ。それでも、駐在期間中はいろいろあったが……。詳しく聞きたいか?」
「やめてください。聞きたくありません」
美紗は声を詰まらせた。前の日からずっと抱えてきた恐怖が込み上げてきた。襟元を押さえ、震える唇から息を吐くと、こらえきれずに涙がこぼれた。
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