3-8 嘘と偽りの世界 

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  「悪かった。ちょっと冗談が過ぎたね」  低く柔らかい、驚くほど優しい声音。美紗は深く下を向いたまま目をつぶった。  この人は、声まで嘘がつける。  昨日の彼と、今、目の前に座る彼。どちらが素でも怖い。自在に嘘を操ることができるのは、持って生まれた気質なのか。それとも、嘘と偽りが交錯する世界に、長い間身を置いたせいなのか。 「ひとつ、聞きたいことがあるんだ」  前日の尋問口調とは違う、静かな問いかけだった。美紗は、うつむいたまま、怯える兎のように耳をそばだてた。 「君の持ち物の中に、統()()局の第3部が作成した資料だけ、五部も入っていた。そのわけを教えてくれるか」 「会議室に、置き忘れてあったんです。後で担当の方に届けようと思って……」  その書類を回収しようとした時に手に持っていたものをすべて取り落とし、慌てて拾い集めたが、USBメモリだけなかなか見つからなかった、と美紗は消え入りそうな声で話した。 「それで、テーブルの下にもぐって探していた、ということだったのか。なぜ、置き忘れの資料のことを最初に言わなかったんだ」  日垣は、少しクセのある前髪をかき上げながら、失笑を漏らした。  半ば安堵し、半ば呆れたような、ため息にも似た、抑えた笑い。  美紗は唇を噛んでそれを聞いていた。あの階段の踊り場で、説明する時間はほとんど与えられなかった。矢継ぎ早に厳しく問い詰められるばかりで、事実を順序立てて話すこともできなかった。  そう反論したくても、今もやはり、うまく言葉が出てこない。 「そういう余裕もなかった、と言いたげだね。まあ、わざとそう仕向けたんだが……」  優しい声が言い淀む。美紗は、まつ毛の先に小さな滴をつけたまま、ゆっくり顔を上げた。まだ青白い顔に、かすかに憤りの色が浮かんだ。 「テーブルの下で落とし物を探していたら次のセッションが始まっていた、というのは、正直言ってかなり信じ難いシチュエーションだが、君が嘘をついていないだろうということは、感触としてはすぐに分かった。誘導尋問にいちいち引っかかるし、一貫して支離滅裂な受け答えだったからね」 「分かっていらしたなら、どうして……」  美紗は、背広を着た上官に、はっきりと抗議の目を向けた。  一方的に犯罪者のように扱われた時は、心底怖かった。あの時の彼の冷酷な視線が、高圧的な声が、またもや偽りだったとは、あまりにも人を馬鹿にしている。作りものの恐怖に激しく怯える姿は、彼の目にはさぞ滑稽に映ったに違いない。 「あの場で、どうしても、君が『シロ』だという確証が欲しかった。だから、少し心理的に圧力をかけて、反応を見させてもらった」 「私を、試したんですか」  感情を押さえようとしても、言葉を発するたびに声が震える。頬についた涙の跡が頭上のペンダントライトの光に照らされると、元から幼い顔立ちは、すっかり泣きじゃくった子供のようになってしまった。  日垣は、困ったように小さくため息をつくと、静かに怒る美紗の目をまっすぐに見つめた。
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