4-2 理想の先輩 

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  「8部にいらした時は、情報関係のお仕事だったんですか?」 「うん、そう。中途採用で入省して、最初の七年間はずっと8部。私は在欧企業で働いたことがあるから、それで、入ってすぐに欧州関係のところに配置になったの。でも、子供が生まれたら、やっぱり同じ仕事は続けられそうになくて。美紗ちゃんトコもそうだと思うけど、地域担当部も専門官はどうしても即応性が求められるから、やっぱり、子持ちじゃね……」 「それで、総務に変わったんですか?」 「まあね。1部の文書班に来れば幹部待遇にしてくれるっていうから異動して、今に至るってわけ」  吉谷が班長を務める総務課文書班は、種々の文書の発簡手続きや秘文書の授受に関わる管理業務を担う部署だった。  いわゆる「ノンキャリア」である事務官の職種は、専門分野ごとにいくつかに分かれているが、総務、人事、会計などの一般行政系と、情報業務を含む語学系は、採用の時点で別々に取り扱われ、入省後のキャリアパスも全く異なる。  途中で職種を変更するケースは、皆無ではないが、さほど多くはない。別の分野に転向すれば、一から経験を積みなおす手間とストレスを抱えるばかりで、特にキャリア上有利にもならないからだ。 「産休明けの時は、もちろん迷ったけど、気兼ねなく働けるほうがいいと思って、職種転換したの。孫の面倒見てくれるじじばばも近くにいないし、旦那も主夫じゃないから。まあ、職無しパパじゃ困るけどね」  艶のあるセミロングの髪をふわりと揺らした吉谷は、働く既婚女性なら誰もが一度は抱えるであろう問題を、カラリと話した。  望まぬキャリア変更を余儀なくされたかもしれない彼女は、それでも、輝いて見える。それが、美紗にはひどく不思議に思えた。 「独身でいたほうが良かった、って思われたこと、ないですか? 子供がいなければ好きなように働けたのに、って」  吉谷は、まつ毛の長い目をしばたたかせると、美紗の問いに即答した。 「全然。子供が生まれたらライフスタイルが変わるのは、当たり前なんだし。それまでやってきたことに固執したって、しょうがないじゃない。私は8部の仕事に合わない人材になって、8部の仕事は私に合わなくなった。だから自分に合う職種に変わったの。そういう意味では、今でも好きなように働いてる。また地域担当部でやれる状況になった時に、古巣の8部からお呼びがかかればラッキーだなー、なんて思ってるけど、あまりこだわりはないかな」  吉谷は、軽やかな笑みを浮かべると、残り少なくなったコーヒーを飲んで目を細めた。美紗の心の奥底で数年もの間凝り固まっている疑念は、経験豊かな大先輩にとっては、愚問でしかないようだった。  美紗は、恥じ入りながら、不躾な質問をしたことを詫びた。
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