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序 章 マティーニの記憶
好きでいて、いいですか。
迷惑はかけません
ずっと言えなかった想いを、
あの人は無言で抱きしめてくれた―――
「すみません。店を開けるまでは、ここを喫煙所代わりに使うの、控えていただけませんか」
丁寧な言葉遣いながら、やや尖った声が背後から聞こえた。美紗は、はっと息をのみ、体を硬直させた。肩よりやや長い黒髪が、かすかに揺れた。
眼下に、鮮やかなイルミネーションに彩られた街並みが広がっていた。縦横無尽に走る幹線道路は車のライトで埋め尽くされ、十五階建てのビルの屋上からは、それらが金色に光るビーズを繋いだネックレスのように見える。
一方、西のほうにわずかに夕焼けの色を残す空には、眩い光にあふれた地上とは対照的に、猫の爪のように細い三日月だけが、ぼんやりと浮かんでいた。雲が出ているわけでもないのに星がほとんど見えないのは、どこの大都会でも同じだ。
「マスター、また鍵かけ忘れて帰ってったのかな。いつか客が落ちるって、いつも言ってるのに……」
若い男の声が、ぶつぶつと小言を並べながら美紗に近づいてきた。薄暗くなった冷たい屋上に、靴音がやけに大きく響く。
美紗は、こわばった手を無理やり白い柵から放すと、ぎこちなく声のするほうへ振り向いた。おびえた色を浮かべた黒い瞳が、人の姿を探して暗がりを凝視した。
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