【前編】

3/12
前へ
/19ページ
次へ
 刹那。  青の女王は気付いた。  自分の白き指を擦り抜けた存在に。 「どこへ行くのです。私の元に来るのです!」  青の女王は真っ暗な海の底へ落ちていく、ひとりの青年に向かって手を差し伸べた。  けれどその体は、青の女王の指を再び擦り抜けて、下へ下へと落ちていく。 『あなたの慈悲はいらない』  はっきりと青年の心語が聞こえた。  迷いも死への恐れも抱いておらず、強い拒絶に満ちた心語だった。  青の女王は一瞬動揺した。その場に立ち尽くし、青をいくつも重ね闇のように暗くなった海の底を見下ろした。  青年は吸い込まれるように落ちていく。仰向けのまま一直線に。  月影色に輝いていた長い金髪も、青白い端正な顔も、そして高貴な出自だとわかる瑠璃色の衣装も――迫り来る闇のせいで色彩を失いつつある。 「何故私の救いを拒む。人の子よ」  青の女王は神に背を向けた青年の姿をじっと目で追った。 「海に飲まれたものは死の恐怖のあまり私の慈悲を乞う。それなのに、お前は――」  青の女王はふっと溜息をついた。  珊瑚色の唇から小さな泡がこぼれて海面へと昇っていく。  何故かあの青年だけはこのまま海の底へ行かせたくないと思った。  あそこへ落ちたものは海神であろうと、その魂を救うことができないからだ。 「……」  最後の手段を用いるべく、青の女王は再び青年の元へと水をかいた。  両手を伸ばして落ちてくる青年の体を受け止め、魂がすりぬけていく前にその時を止めた。  海神の力は海の中の時をも支配する。  ふわり。  仰向けに横たわる青年の体が沈むのを止めて宙を漂った。  青年の時だけが止まっている。  青の女王は両手に青年の体を抱くと、自らの住まう塔へと帰還した。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加