第1章

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「思い出しましたよ」ポンと手を打って、初老の男は言う。 「何を」しわがれた声がそれに応える。 「いや、さっき、父さんが覚えてるか、って聞いたでしょう、少年たちのこと」 「ああ、一馬(かずま)君と、えっと……誰だっけ」 「三先(みさき)君、でしょ」合いの手が入った。 「そうそう、三先君!」 父さんと呼ばれた老人は、武幸宏という。齢は90に届き、すでに現役は引退をしている。かつては大学の学長にまで登り詰めたが、今は妻と共に悠々自適の日々を過ごしている。 「僕が父さんのところにいた頃、子犬を預かってくれた人がいたでしょう、あの人のことですか」 「ああ、そうだ。確かちょっとの間だけど、子犬を押しつけたんだよね、コロだったかなあ」 「そうコロですよ」 幸宏の妻、幸子が口をはさむ。 「我が家の犬は全部コロですから」 うるさいよ、と幸宏は口をとがらす。 「そういや、うちの犬の名前も代々コロだね?」初老の男性の息子も合いの手を入れる。 「お前も余計な事を言わない」 はいはい、と二つ返事で若者は先を行った。 「とにかくだね、間違いないよ。そいつが慎先生で、あの子たちの祖父だよ」 「コロか……なつかしいな」男は口角を片側だけ上げて微笑む。 「君たちが連れてきたんだもんねえ」 「仕方ないでしょう、拾ってきて、よそへやってくれるなと泣くのだから」 「何年前になるんだろう、懐かしいねえ」 「ふうが会いたがってました。あの犬は今頃どうしてるんだろう、って」 「長生きしたよ、賢い犬だったなあ」 「まだ父さんのところの犬は、コロと名付けているんですか」 「いや。もう随分と長いこと飼ってないよ」幸宏は即答した。「何があるかわからない歳になったから」 宗太は数拍遅れて答えた、「そうですか」と。 11月の空気とそぼ降る雨はひやりとして身体に冷たい。老夫婦には堪える天気だ。 「さっちゃん、大丈夫かい」 幸宏は隣の妻に声をかける。 「いやですよ、もうその名では呼ばないで下さいな、って言ってますのに」 ややもすると前屈みになる小さい背をしゃんと伸ばして、妻・幸子は言った。 「大丈夫、他に誰も聞いちゃいないさ」 言って、幸宏はカラカラと笑う。 先に行く『息子』とその長男は、くすりと笑った。
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