2人が本棚に入れています
本棚に追加
「雨が冷たい。早く済ませちまいましょうか」息子は言う。
「いいんだよ、一年ぶりなんだから、きちんと話してあげなきゃ。寂しがるだろう」
幸宏は言った、宗太、と。
この日、武夫婦は広島にいた。
古くからの知り合い、大切な人に会いに来た。毎年この時期には欠かさず訪ねていた。
もう何年通ったことだろう、あと一年、まだ一年と老いた身を運んで来た。しかし、ここ数年、果たして来年はあるのだろうか、と、ふたりは口には出さずとも意識するようになっていた。
お互い戦前派、年号で言うところの大正生まれだ、いつその時が来てもおかしくない。
事実、幸子は今年に入ってめっきり身体が弱くなった。風邪もひきやすく、なかなか治らず、寝込むことも増えた。
今回も幸宏ひとりで出かける予定だったが、「いやですよ!」と反対したのは幸子の方だった。
「あなたが行くところには私もお供します。ひとりだと平気で切符も何もかも忘れるくせに」
「あのね、さっちゃん」幸宏は思いとどまるように説得したが、幸子は言い募る。
「ひとりで、ここで帰りを待てというんですか!」
ふたりともわかっていた、そろって広島を訪うのはこれが最期になるのだろう、と。
「でも、僕たちがここへ通うようになって何年になるだろうね」幸宏は宗太に問う。
「僕が学生の頃だったから……」宗太の息子が口を挟む。
「かれこれ三十年以上になるか?」
「もうそんなになっちゃうのか……」
そうかあ、と幸宏はつぶやいた。
「父さん、母さん。これ、覚えてますか」
宗太はポケットから古びた毛糸編みをふたつ出した。
「あらまあ、なつかしい」幸子は目尻を下げる。
「忘れるはずがない。まだ持っていたんだ」幸宏も嘆息する。
「もちろんです。肌身離さず手元においてました。父さんの家を後にする時にくれたお守りです」
「何かあったら帰って来いって言ったんだよね」
「結局使わずじまいでした。使わずに今日までこれた。心の支えになってました。まだがんばれる、もう1日我慢できる、明日になったら東京に行ける。いや、あと1日持ちこたえられる、と」
「僕は今でも後悔してるよ」幸宏はつぶやく。
「例え僕や君たちの親族が反対しようと、司直に捕まろうと、君たちを手放すべきではなかったと」
いいえ、と宗太は首を横に振る。
最初のコメントを投稿しよう!