第1章

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「雨が冷たい。早く済ませちまいましょうか」息子は言う。 「いいんだよ、一年ぶりなんだから、きちんと話してあげなきゃ。寂しがるだろう」 幸宏は言った、宗太、と。 この日、武夫婦は広島にいた。 古くからの知り合い、大切な人に会いに来た。毎年この時期には欠かさず訪ねていた。 もう何年通ったことだろう、あと一年、まだ一年と老いた身を運んで来た。しかし、ここ数年、果たして来年はあるのだろうか、と、ふたりは口には出さずとも意識するようになっていた。 お互い戦前派、年号で言うところの大正生まれだ、いつその時が来てもおかしくない。 事実、幸子は今年に入ってめっきり身体が弱くなった。風邪もひきやすく、なかなか治らず、寝込むことも増えた。 今回も幸宏ひとりで出かける予定だったが、「いやですよ!」と反対したのは幸子の方だった。 「あなたが行くところには私もお供します。ひとりだと平気で切符も何もかも忘れるくせに」 「あのね、さっちゃん」幸宏は思いとどまるように説得したが、幸子は言い募る。 「ひとりで、ここで帰りを待てというんですか!」 ふたりともわかっていた、そろって広島を訪うのはこれが最期になるのだろう、と。 「でも、僕たちがここへ通うようになって何年になるだろうね」幸宏は宗太に問う。 「僕が学生の頃だったから……」宗太の息子が口を挟む。 「かれこれ三十年以上になるか?」 「もうそんなになっちゃうのか……」 そうかあ、と幸宏はつぶやいた。 「父さん、母さん。これ、覚えてますか」 宗太はポケットから古びた毛糸編みをふたつ出した。 「あらまあ、なつかしい」幸子は目尻を下げる。 「忘れるはずがない。まだ持っていたんだ」幸宏も嘆息する。 「もちろんです。肌身離さず手元においてました。父さんの家を後にする時にくれたお守りです」 「何かあったら帰って来いって言ったんだよね」 「結局使わずじまいでした。使わずに今日までこれた。心の支えになってました。まだがんばれる、もう1日我慢できる、明日になったら東京に行ける。いや、あと1日持ちこたえられる、と」 「僕は今でも後悔してるよ」幸宏はつぶやく。 「例え僕や君たちの親族が反対しようと、司直に捕まろうと、君たちを手放すべきではなかったと」 いいえ、と宗太は首を横に振る。
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