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「僕は生き延びた。今の僕があるのも、親と呼ばせてくれる先生お二方のおかげだ。今、自分が医者として身を立てていられるのも、何くれとなく気にかけていてくれたからです。……富美も、最期まで感謝していました」
ふたつの毛糸編みは、すっかり色褪せている。ひとつは鈍色、もうひとつは明るめの杏色。その毛糸編みを、宗太は指で何度も撫でた。
「母さん、よく言ってた」宗太の息子は肩をすくめた。
「仕方ないから父さんと結婚したけど、本当は別の人のお嫁さんになりたかった、って。だめっていうから二号さんでもいい、って頼んだけどだめだって断られたって」
「ふうちゃん……富美ちゃんらしいわ」幸子は微笑んだ。
いつも怒ったような顔をして幸子をにらんだ富美は、反面、とても甘えてくる子だった。早々と音信を断った宗太と違い、折に触れて手紙を書き送って寄こした。少しずつ少女から大人の女性へ成長し、母となってからも彼女とのやりとりは続いた。
彼女からの手紙が届かなくなった日まで。
「あれは、黒い雲を生涯怖がりました。自分は遠く眺めた記憶があるだけ……いや、元々、戦時中のことは記憶が抜けていて、よく覚えとらんのです。きっと、相当辛いことだったから、留めたくなかったのかと思うくらい……」
視線を手元に落として宗太は続けた。
「一時でもあれと離れて暮らしていた期間があったから、側にいて欲しいのは他の誰でもない、ふうだと気付けた。共に過ごした日々はかけがえのないものでした。ただ……」
言葉は続かなかった。
「着きましたよ」宗太の息子が声をかける。
一同が辿り着いた先は、瀬戸内を望む小高い丘。傾斜地に居並ぶ石柱は、家の名を刻んだ墓標だ。
そのうちのひとつの前に足を止め、宗太は言った。
「父さんと母さんが来てくれたよ。――ふう」
手に持つ束線香が吐く盛大な煙は、もくもくと午後の曇天の雨に溶けて消えていく。
故人を記す『富美』と刻まれた名は、30年の月日を物語るように、石の縁が少し丸くなっていた。
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