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(2)
「お前さ……昨日映画館にいなかった?」
「えっ!?」
あまりにも突然の呼びかけに、桜は持っていた玉子サンドを思わず手から零しそうになった。
声のほうを振り向く。
サッシに手をかけた幸生の顔が視界に飛び込んできた。
「あの、……え、と……」
まさか、井崎くんのほうから話しかけてくるなんて。
思いがけないことに、桜は戸惑った。
そんな桜の動揺には無関心なのか、無視するように幸生は続けた。
「荻野って、ああいう映画が好みなのか?」
「えっ」
「だから、昨日観てたようなヤツ」
昨日シネコンの9番スクリーンでかかっていたのは、現代劇の人間ドラマが中心の作品だ。ハリウッドのアクション大作のような類ではなく、どちらかといえばインディペンデント系。
内容そのものにも興味があったのはもちろんだが、主演していた俳優が以前から好きで、そんなのも観に行った理由のひとつだった。
だが、好みなのかどうか、と言われると、即答に困る。
「う・うん……まあ……」
ひとことや、短いセンテンスでうまく“自分があの映画を選んだ理由”を説明するのは難しい。
桜にとって、『映画を観る』という行為は、そんなに単純なものではないからだ。
桜は曖昧に返事をするしかなかった。
――それよりも――
桜の頭の中は、たった今ベランダの空気を震わせた幸生の声が『おぎの』と自分の名を発したことで頭がいっぱいになった。
音の振動は耳の奥の鼓膜を叩いた内耳の蝸牛を抜け、そのまままっすぐに桜の心臓を内側からノックした。
高まる血流が桜の顔を染めていく。桜は、覚られまいと幸生から顔を背けた。
「い・いざき く・ん……も、好き、なの? その……ああいう、の……」
自分の声帯が『いざき』と発することに慣れず、なんだかギクシャクとした文章が声になる。
発言した直後、『好き』という言葉が映画を意味するのではなく『おぎの』に係るように聞こえ、桜の頬はいっそう紅を増してしまった。
じんわりと汗が吹き出し、ブラウスの内側の背中を伝っていく。
幸生がベランダに降りてきて、欄干に凭れながら話を続けた。
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