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(4)
――何だったんだろう。あの感じ。
午後の授業が始まっても、桜の体にはまだあの感覚が残っていた。
桜はさっきのベランダでの出来事を反芻していた。
“お ぎ の”
幸生の発した3つの音は、頭頂からつま先へ桜の体を一気に通過し、電撃のようにびりびりとした痺れが貫いていった。
幸生のほうから桜に声をかけてくることなど、これまでの日常ではありえなかった。
これまで気にして聞いたことなどなかったが、こうして自分の名を呼ばれてみると、幸生の声はキリリと空気を揺らし抜けがいい。
澄んだテノールの響き。
――また、あの声で『おぎの』って言われたい。
現国の授業で、教科書の朗読の順番のときに幸生の声は聞いてはいたが、こうして自分に向けて言葉が投げかけられたことなどなかった。だから、一層この印象は鮮烈だった。
あの声を、もっと聞きたい。
桜の胸は、そう考えるたびに高鳴り、リズムを早めた。
* * *
一週間が過ぎ、幸生とは特に何もなく過ぎてしまった。
桜から声をかけたくとも、いったい何を話題にすればいいのか皆目見当がつかなかったからだ。
幸生のほうも、桜に気を向けることもなく、つるんでいる男子たちのグループの中に入りいつものように行動していた。
お互い、クラスでの日常を過ごすまま、日々が経過していた。
桜は、幸生に訊ねたいことがあった。
ロードショーは、新作は週末、金曜か土曜に封切される。
ちょうど次の週末はその新作公開ラッシュにあたり、数本の封切が予定されていた。
今度の土日、幸生はどれかを観に行くのだろうか。
桜はそんなことが気にかかっていた。
桜は日曜にシネコンで新作を一本観ようと予定している。
――ひょっとしたら、井崎くんも、それを観ないかな。
また、映画館で一緒になれる、かな。
そんな簡単な質問さえ切り出せないまま、ウィークデーは過ぎ、日曜を迎えてしまった。
桜はこんな自分に忸怩とした思いを覚えながら、ショッピング・モールのシネコンへと向かった。
館内に入ると、桜は中央より前方、やや左寄りの席に着いた。
多くの映画を観賞してきた経験から絞り込まれた、桜のベストポジションだ。
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