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「なんかドアが開かなくて」の一言で、彼女が勝手に開けてくれるだろうし、開いた後にする説明など「あれぇ?」で十分だ。
彼女にも開けられないなら、それはそれで、そこから考えれば良い。
私は、さも困ったなという情けない笑顔を作ってゆっくり振り返った。
振り返ってすぐ、考えていた以上に距離を詰められていてギョッとした。
直後、目の前にいる相手が笹木さんでないことに気が付いてその驚愕に動揺が絡む。
眼前僅か30センチほど先で壁のように立っていたのは、いつもの屋上の、あの彼だった。
全身の肌が粟立つのを感じたのは、思わず一歩後退してからだ。
脳内で警笛がどんどん大きくなっていく。
いつも無関心一色な彼の口の端が、禍々しいほど艶麗な曲線を形作っていた。
その唇が、僅かに開く。
『君の好きな人は、誰?』
ざわざわと肌を撫でていくような、嫣然とした低音が頭に響いた。
その声だけで意識が朦朧とし始めている自分が悔しい。心臓の動きは、きっと人生最速を記録中だ。
その同じ声で、彼は、
『若菜』
私の名を呼んだ。
あの空虚な目にはいつの間にか炯々たる強い光が宿り、満足げな微笑と相まって、扇情的で挑発じみた気迫を感じる。
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