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気がつけば彼に手を掛けられた顎は少し上向きになり、私の視線は彼の視線としっかり重なっていた。
彼を見つめる私の目を、満足げに見つめる彼。
『若菜』
言いながら、折り畳んだ指の背で私の頬を撫で上げる。
そして、目尻まで到達するとその手を開き、私の左頬を包み込んだ。
『私の若菜』
私を呼ぶ低い声は、この上なく、限りなく甘かった。
その柔らかな波が、私の中で意識を大きくさらっていく。
『私を好きだろう?』
繰り返し寄せられる波に酔わされながら、しかし。
繰り返されることで、撹乱の渦中にある私の思考回路も、焦点を定めて起動することが何とかギリギリできていた。
ずっと無関心を決め込んでいた彼の突然の変貌は一体何なのだ。彼の目的は?
変化が突飛だからか、この訳の判らない流れの延長に、彼が悪意を剥き出してくる瞬間を無闇に想像してしまう。
どうにかしてそれは避けなければならない。この同じ空間に笹木さんがいるのだから。
そう、笹木さんがいるのだ。
彼に気持ちを乱されつつも、その事実は、覚束ない意識の一端にまだ引っ掛かってくれていた。
笹木さんにはオバケとの関係を誤魔化し隠し通したかったのだけれど、もうそれは叶わぬ妄想だろうか。
彼の体で、笹木さんの姿は全く見えない。
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