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『若菜、大丈夫?』
彼の声で、正気に戻る。
そしてその一瞬で、直前の一瞬を振り返った。
吹っ飛んだ私を抱き留めながら一緒に吹っ飛んだ彼は、ドアから1メートル半程離れた場所へ仰向け気味に座る形で着地した。
私はその彼の腕に抱かかえられ、彼の開いた両足に挟まれる状態で彼の上にきっちり乗っかったのだった。
体が宙を舞うことなどおよそないことなので焦りはしたけれど、危険が伴うスタントとはかけ離れた日常範囲内の転倒であり、更に私は彼を下敷きにしている。
大丈夫でない要素は、何処にもなかった。
だからつまり、彼が慌てる理由など欠片もない。
私を覗き込む彼の顔に浮かぶ焦燥が、私には滑稽だった。
正直に言えば、色欲を纏い蠱惑的な意図に満ちていた先刻までの言動から一転し、私を受け止めてくれた柔らかな優しさや素の気遣いに対しての狼狽が大きい。
照れも手伝って、私は彼の様子を笑ってしまった。
それに対してむっとした表情を晒す彼が、更に可愛らしく感じられてより可笑しい。
開放的な気分でそんな楽しさを味わっていた私の意識を拘束したのは、また始まった呪文の如き彼の低音だった。
ただ、
『若菜は、可愛い』
私を擁く腕と同じように温かく慈愛のこもったその声音に、誘う響きはもう感じられない。
耳に心地良く、鼓膜にじんわりと沁み込んでくる。
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