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辛悟は何も言わない。否、言えなかった。天突穴を抑えられれば声を発することはできないのだ。突き込まれようものならば陽気が上昇し昏倒することもある要穴なのである。
その指を袖と共に打ち振るって背を向けると、辛大老は話すことは全て話したとばかり、出口へ向かう。そこでふと思い出したように立ち止ると、あたかも一つ注文を忘れていたのだという口調で、
「お前を預ける先生のお名前だが、世(よ)先生と言う。お前も聞いたことがあるだろう。最近は若い人手が足りなくて困っていたそうだ。せいぜいお役に立つことだな」
「――っ!」
ダンッ! 辛悟は回想から醒め、再燃した怒りを地面に叩きつけた。辛大老は、彼の祖父は、あろうことか辛家の嫡男たる彼を山の首領の元へ預けると言い出したのだ。世先生と言えば山で働く男たちを束ねる名士ではあるが、役人ではなくただ名の知られただけの平民である。勉学を指導できるはずもない。
要するに辛悟は勘当された挙げ句、労働力として売り飛ばされたのだ。
「二言目には辛家、辛家と……。辛家の名がそんなに大事かよ」
かつて毎日のように小言を言われたことなど比にならない。賭けで思うような勝ち方ができなかった時も比にならない。これほどの怒りは今まで抱いたことがなかった。
「……」
だが、怒りはあっても憎しみはなかった。辛悟ももう物わかりの悪い年代ではない。自身がどれだけ辛家の恥となる人間なのかは、彼自身が一番自覚していた。このまま勉学を続けたところで家門に泥を塗り重ねるだけとなろう。ならば愛妾の子でも何でも取り立てて、不出来な輩は追い出すに限る。それで言えば、祖父の決定は妥当なものと言えた。
(いい加減、俺も腹を括(くく)るべきかな)
そうして天を仰いでいると、背後で何やら人の駆けてくる音が聞こえてきた。人数は……二人か。
「畜生、一体どこへ逃げやがった?」
「まだそうそう遠くへは行っていないだろう。えぇいあいつめ、必ず見つけ出して自分のやったことを後悔させてやる」
「ああそうだ。膾(なます)に切ってやって、この川に投げ込んで魚に喰わせてやろうぜ」
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