序・仇討ち

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春の小川に桜が舞い、まだ冷たい渓流のせせらぎを淡く染めた。 静寂である。澄み切った水音だけが満ちていた。 河原に竹矢来が設えられ、多くの人々がそこに詰めかけていた。 彼らが物音一つ立てることなく息を呑んで見守る竹矢来の内側、その一画に白葱紋の陣幕が張られ、その前に裃姿の侍が床机に腰掛けている。 裃姿の侍の名は、氷山図書ノ介清輝。九里府藩初音家二十万石の家老である。 彼は女中のおミクと共に、目の前の光景を固唾を呑んで見守っていた。 そこに、二人の侍が真剣を持って対峙していた。 共に襷掛けに鉢金を締めている。一騎打ちである。 それは仇討ちの場であった。 討ち手の名は、楽歩。浪人である。だが彼は本来の討ち手の助っ人だった。 対する仇人の名は、海斗。九里府藩士であり、郡奉行所の代官を務める男だった。 楽歩の構えが、正眼と呼ばれる切っ先を身体の正面に向ける構えに対し、海斗は剣を頭上に高々と掲げていた。 切っ先が天を衝かんばかりのその構えは、一撃必殺を信条とする剣法・示現流の構えである。 それを前にした楽歩は、踏み込むことができなかった。 その間合いに一歩でも入ったなら、たちまち稲妻の如き一撃が襲ってくるであろう。 防御をかなぐり捨てた相打ち上等の剣技は、それ程までに速い。 しかも速さだけではなく、威力ももの凄まじい。下手に防ごうものなら、刀ごとへし折られる。 故に、楽歩は動かぬ。 動かぬまま、正眼の切っ先を海斗の眉間に向けてピタリと構える。 その微動だにしない切っ先を前に、海斗もまた、動けなかった。 海斗は、楽歩の構えのあまりの静けさに瞠目していた。 この正眼の、なんと美しき構えであることか! 楽歩の構えには、真剣勝負に対する気負いも、恐怖心も、殺気さえも無い。澄んだ水面の様に静かな構えである。 剣禅一如という極意とは、まさにこれではなかろうか。海斗は楽歩の業前に感動さえ覚えていた。 ((恐るべき相手だ・・・)) 楽歩と海斗は、共に同じことを思った。 そして同時に、こう思った。 ((この男に斬られるならば、本望である)) 剣士として、男として、何より侍として。 得難い好敵手と出会えた喜びが、二人の心内を満たしていた。
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