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信夫は苛立ちを感じずにはいられなかった。いつもならば、気にも止めない時計の針の音ですら苛立ちを助長する要因の一つとなっている。
苛立ちを抑えるように信夫は一日に制限がかかっているタバコを一本くわえた。くえるだけで火は点けない。制限がかかっているのだ、火を点け吸いでもしたら、あっという間に消費してしまう。そんなもったいないことは出来なかった。くわえているだけでも吸ってる気分が味わえ、苛立ちはいくらか和らげた。
「まだ来ないのか?」
時計の針を何度も確認していた信夫は台所で包丁を研いでいる妻の楓に聞く。彼女は新品同様の出刃包丁を更に鋭く研ぎながら、
「あと十分くらいかしら。あなたも、タバコなんかくわえていないで、テレビや本でも読んで気を紛らわしたらどう?」
楓は砥石から包丁を持ち上げ自分の顔が鏡のように映る刃に笑みを浮かべていた。
テレビや本と言われても、信夫はとてもそれらを見る気にはなれなかった。テレビなど道徳的で退屈な番組しかしていない。本にしたって、昔のような娯楽となる冒険記やミステリー、サスペンスといったものは滅多にお目にかかれない。それらの本は風紀を乱すという理由で、発禁指定を受け書店から消えた。インターネットを使えば、昔の名作と呼ばれる小説が非合法で手に入るが、それも検閲さえただ淡々と事件の概要と結末だけを綴っているだけの報告書みたいな内容である。そんなものを読んで何が楽しいというのか。唯一、堂々と読める本にしても童話や昔話、純愛小説といった道徳心を高めるものばかりで興奮も何もなかった。そんなのを読んだ日にはむしろ、苛立ちが募るばかりである。
楓も信夫に「気を紛らわしたら」と言っているが、彼女もまた苛立ちを感じていた。たった十分だというのに、非常に長く感じられた。包丁を研ぐことで精神を統一させてはいるが、これから始まることを想像するとついつい、研ぐのに力が入ってしまう。
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