第1章

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声はとっても可愛らしい。まろやかで通りの良い声だ。 「……さっちゃんかい?」 武は前を向いたまま言う。 一瞬の間を開けて、「さっちゃん」と名指しされた女性は不満げな色を乗せて一段トーンを落とした声で応える。 「その呼び方は止めて下さいって言ってるじゃありませんか」 武はカチンと踵を慣らしながら180度ターンをする。 そして、まるで舞台劇か洋画の俳優のように両手を広げ、へたくそな演技をした。「我が親愛なる友、さっちゃん」と。 武のような鮮やかさはなく、もたもたと頭を廻らせた慎の目の先には、武より小柄、平均的日本女性よりさらに小柄な女性が立っていた。 袖を通さず肩に羽織っただけのカーデガンに分厚い本を数冊胸元に抱え、ふんわりと拡がったスカートからきゅっとしまった足首が覗いている。 丸い襟の白いブラウスは糊がかかっていてぴかぴかとまぶしい。顔は少し丸くて肉感的な女性だ。時折ぞくりとする色気と男をそそる表情を見せる。彼女は無意識だし、誘ってる自覚もないから始末におえない。化粧っ気はないのに頬も唇も熟れたての果実のようにみずみずしく赤かった。すれ違う男の半数以上を振り替えさせる、「さっちゃん」こと野原幸子のポートレートだ。 年の頃は慎と変わらない。慎や武と同じく、大学で籍を置き続けるべく日々闘う仲間のひとりだ。 見た目は女学校生のようなのに、彼女はなかなかの切れ者だった。 「さっちゃんじゃありません! 私は野原という名字がちゃんとあります!」 「そうだったねえ、さっちゃん」 自分より年上の女性に、武はニカッと笑いかけた。 「もう! 聞いてるの?」 「聞いてるよう、さっちゃん」
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