第1章

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「何か用事があったんだろ?」 「そうよ、柊山先生がお呼びなの」 「僕? 慎君? どっち?」 「おふたりとも」 「わかったよ、待たせるとこわいからね、慎君、急ごう」 有無を言わせず慎の首根っこを引っ張って、武は颯爽と廊下へ駆け出した。 今はもう戦後ではないと叫ばれ出した頃だ。 あちこちに復興の土音が響き、人の往来とムッとする体温があふれかえっていた。 余所の国の戦争ですら自国の経済発展の糧としてしまう日本人はタフだ。 これからどこへ向かって行くんだろう。 慎は思う。 私は――どこへ向かうのだろう。 武から小言をもらった今晩も別の女と約束をしている。いつものように宜しく時を過ごし、吸った吸い殻を捨てるように身体の火照りだけをなだめる為に。武が言うように、本当にいつか女で身を持ち崩すかもしれない。 彼が心配して言ってくれているのはわかるのだ、だが、武が野原と戯れるようにお互いの距離を縮めていく様子は、春の日向に咲く野花のようで、ひたすら明るく、後ろ暗いところはない、健全そのものの男女の姿だ。そなもの、まっぴらご免だ。自分は、雄の体臭と雌の体臭が混ざり合う情交のにおいが一番お似合いだ。 眉をひそめてしまうような悪臭なのに、身体に直接働きかけ、立ち上がる己に生を感じる。生きていると思える。女の中に放つ瞬間、快があることだけが救いだった。 が、昨晩の帰り際、女と歯切れが悪い切れ方をした。ぱっと現れて消えた男は何と言っていた?  その方がよろしいでしょう。 何がよろしいでしょう、だ。取り澄ました男の言い方が癪にさわる。 しかし、奴は相手が商売女だと言っていたな。 面白くない病気を移されたらたまったものではない、慎は頤を押さえて立ち止まった。戦時中嫌になるくらい病院には世話になった。これ以上はご免こうむりたい。女遊びはしばらく自重した方がよさそうだ。 天を仰ぐと頭上には天井の板の目が規則正しく並ぶ。 自分の居場所はどこにある。 私は、どこへ行くんだろう。 慎は隣を走る友人をちらりと見た。溌剌を絵に描いたような友人の横顔だ。 武君、君はまぶしいよ。 私は君のようには生きられない。
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