千年の花

1/8
前へ
/8ページ
次へ

千年の花

時は幕末、黒船来航の頃。 若い男が藤沢街道をノラクラ歩いていると、 「そこのお兄さん、ウチに泊まっておくれよ」 と若い客引きの娘が声をかけた。 「オレかい?」と男が訊くと、 「そ、そうだよ、泊まっておくれよ」 娘が困惑しながら答えたが、これは詮無いことである。 なぜならば、男は極めて貧乏たらしい風体だったからだ。ボサボサに伸びた蓬髪に、廊下雑巾のように汚い着物。薄汚れた貌だが、人懐っこい笑顔だけはまぶしかった。 「それが宿屋かい? てっきり物置小屋かと思ったよ」 しまった貧乏人だ、と舌打ちする娘の背後を、男はヒョイと覗きながら云った。 いかにも鼠のお宿のような、物置小屋仕立ての今にも崩れそうな宿屋だ。 これでは客が泊まらないだろう。それを証明するかのように、娘が歯噛みしながら躍起になって云った。 「物置小屋で悪かったね。これでも藤沢宿で有名な老舗だったんだよ」 「そうは見えないなァ」 「大きなお世話だよ。泊まるの? 泊まらないの?」 見るからに銭無しだが、引っ込みがつかなくなった娘が伝法に訊いた。 「どうせ泊まるなら、あっちの方が良いかな」 男は街道を挟んだ向かいの宿屋を見た。 物置小屋と打って変わって、向かいの宿屋は檜造りの豪奢な建物で、綺麗所の女中が客引きをしていた。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加