第一話 七月二十二日月曜日 始まる

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 通路の先にはトイレがあるだけ。誰もこんなトコのトイレなんて使いもしない。大概は改札前のトイレを使うだろう。なぜかって、人ごみに揉まれ押しのけながらこんなへんぴなトイレへ足を運ぶより、改札前の方がよほど入りやすいし、忘れられたかのようなこっちのトイレより遥かに綺麗だからね。  まぁ、コッチはもう、ほぼ使われていない時代の廃物って言ってもいいくらいだ。和式だし。ひねらないと水も出やしない。トイレットペーパー? あは、持参でお願いします。なければそこのガシャコン(自動販売機)で。と、そんな感じのトイレだ。だから、慌ただしい通勤ラッシュのこの時間、ひとけなんてあるはずもないってわけ。そこで俺たちは決まって、朝のお別れをする。そう、切り替えて。一日を頑張るために……。  ひとけのないその通路の中程まで進む。顔を見合わせ微笑み合って、彼女を壁へと誘う。俺は来た道に背を向け彼女を覆うように壁に寄りかかる。可愛らしく俺を見上げる彼女。その頬に、そっと手を当てる。親指の腹で柔らかな頬っぺたをスーッとなぞり、ゆっくりと首を傾ける。少し持ち上げられたその唇に一つのキスを落とす。 「行ってらっしゃい」 「行ってらっしゃい」  その言葉は俺たちの合図であり、おまじない。「おかえりなさい」までのね。  微笑み合って儀式を終えれば繋いでいた手は離し、お互い他人になって来た通路を戻り、各々の登り口へと向かう。 
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