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「カズ! 落としたよ!」
アパートの部屋を出た途端、後ろの彼女が社員証を拾った。
「おお、ありがと」
「まだ首に掛けちゃダメだろうけど、気をつけてね! 早坂和也君!」
彼女が社員証を水戸黄門の印籠みたいに押し出す。入社当時のちょっと子供っぽい顔つきの俺がやけにかしこまった顔でこっちを見ている。まだ二年も経っていないのに、すごく幼く見えるのはなんでだろう。
「落としたら会社入れないもんね~」
そう言って突き出した社員証を俺の首に掛けてくる。
「ちょい、言ってる事とやってる事!」
「ほら! 猫背になってる。姿勢伸ばして堂々と」
今度は両肩を掴みグイッと後ろへ押される。
「うん! 男前!」
ウィンクを見せる彼女に、俺は自然と微笑んでしまう。
首に掛けられた社員証を取り、鞄の内ポケットへ入れた。彼女の「行くよー」の声に顔を上げれば、いつの間にかアパートの階段下で俺を見上げている。
は、早いな……。
「鍵かけるから、待って!」
戸締りをして、階段を駆け下りる。キビキビした足取りの彼女が振り返り「ふふふ」と微笑んだ。
可愛い。俺ってホント幸せ者。
この年まで健全に着実に人生を歩んで来て、大学卒業後は名のある企業にも滑り込めた。大学当時から付き合っている彼女と、只今同棲中。
もう付き合い始めて四年になるけど、気持ちは付き合い当初と変わらず、何一つ色褪せない。二人で甘い夜を過ごし、彼女の作った朝食をにこやかにいただき、毎朝一緒に駅まで通勤。
残念なことと言えば、彼女とは駅でお別れってこと。しかし、お仕事はお仕事。気持ち切り替えるにはかえって職場が違ってよかったのかもしれない。それに、会えた時の癒し度も増すってなもんだ。
手を繋ぎ改札を抜けると、トンネルの如く真っ直ぐ伸びた大きく長い地下通路へ。
ズラリといくつも並んでいる、各ホームへと続く登り口の穴。俺たちは手を繋ぎ、各々のホームへと行く前に、団子のような通勤客の塊からするりと抜け出す。そして他の登り口とは違う、奥まった細い分岐路へと滑り込む。
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