第1章

2/139
前へ
/139ページ
次へ
第一章 褐色と青  眼下に広がる雲海は、まるで神の住む場所のようだった。ここが天竺だと言われたら、きっと信じてしまうだろう。目眩がするほどの荘厳さに、鏡原雪也は息を呑んだ。暫くすると機体が降下し、幾筋もの光が雲間から大地に向かって降りていくのが見える。純白の雲はゆっくり後方に流れ去っていく。  西暦二〇一六年一月八日、午後一時。  まだ正月が明けたばかりだった。昨年の暮れに急遽、インドへの渡航が決まり、雪也は慌てて航空券を手配することになった。それにインドでは迂闊に水や生鮮食品を口にできないので、ミネラルウオーターや携帯食料が必需となるし、各種疾病の予防接種も受けなければならなかった。更に不慣れなビザの申請にも手間取り、苦心惨憺して駆けずり回る破目になってしまった。最初から、この旅は波乱含みになりそうな予感がしていたのだ。  雪也たちの滞在予定先は、インド東部に位置するコルカタである。関西国際空港からコルコタまでの直行便は出ていないので、タイのバンコクを経由するルートを取った。そして現在、雪也はボーイングに搭乗し、機内席に座っているのだ。国際線の運行は少し遅れていた。  経由先のバンコクで航空機を乗り継いでから、約三時間半が過ぎていた。身を捩ると、機内の狭い座席が軋む。何時間も地上数千メートルを超す高度の空の上にいるので、ただ座っているだけでも疲れは増していく。それに身体が痛い。航空機の座席は窮屈で仕方なかった。  元々、零細探偵事務所の新米社員にすぎない雪也が、海外旅行に慣れている筈もない。旅先への期待は募るばかりだが、それに反して空の旅は快適とは言い難かった。  ふいに隣の座席に座る凪雲紘一郎が、嫌味なほど上品に微笑してタブレットに触れた。そもそも雪也は、凪雲との旅に辟易している。幾ら仕事の為とはいえ、到底気が合うとは言い兼ねる相手との二人旅は億劫なものだ。  持ち込んだ資料も読み尽くしてしまったし、コーヒーも二杯ほど飲み終えたところだ。  暇を持て余してタブレットのアプリでチェスなど始めたものの、凪雲が一方的に勝利するばかりでさっぱり面白くないときている。三回戦に入り、早々にビショップとクイーンを取られて頭を抱えていると、着陸のサインが点灯して機内アナウンスが流れ始めた。
/139ページ

最初のコメントを投稿しよう!

19人が本棚に入れています
本棚に追加