走る女

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 四角にぱっくり口を開けた交番の入り口の向こうに、前屈みになる愛の後ろ姿が見えていた。現れた俺を見て、ほっとした表情を浮かべる。  俺はまだ事態を把握していない。間抜け面で愛の隣に座った。 「なんて言ってたっけ。追いかけられたって?」  愛が激しく頷く。力強く握りしめられたタオルハンカチと、 鼻をすすった音で、随分泣いただろうことが伺えた。  2人の駐在に説明を求める視線を送ると、彼らは愛の証言に基づいて経緯を話してくれた。 「1時間くらい前に、刃物を持った女に追いかけられました」 「刃物を持った女?」  髭の剃り痕が青々とした駐在は、四角い顔を縦に動かした。 「薬物中毒者の可能性があるので現在付近をパトロール中です。幸い奥さんはここを見つけられたんでね、被害は持っていたバッグおよび、中に入っていた財布、携帯、家の鍵等……」  よく見たら愛は手ぶらだった。見覚えのないタオルハンカチは駐在が貸してくれたものだと判明した。  刃物を持った女に追いかけられるなんて、一生のうちそうそうあることではない。身の回りに起きた非現実と、いままさに目の前ですすり泣く愛がリンクせず、気の利いた台詞はビタ一言出てこなかった。  黙っているのも悪いので、「大丈夫か?」と言った。大丈夫なら泣いたりしないだろうに、俺はアホである。
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