570人が本棚に入れています
本棚に追加
/230ページ
私は小さく頭を下げた。
その時、ふっと頭上が陰った気がした次の瞬間、廣瀬さんはケーキの箱をもつ私を器用に抱きしめていた。
「ひ、廣瀬さん、ちょっと待って、放してください」
「辛い時は泣いた方がいいよ。僕でよければ、いつだって胸を貸すから」
ゆっくり背中を慈しむように撫でられ、息を飲んだ。
まるで大きな胸に抱かれているかのようなそのぬくもりが、今はひどくあたたかくて、私は奥歯を噛んでこらえる。
このままでは、本当に泣いてしまいそうだった。
それも苦手なはずの廣瀬カオルの前で。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、廣瀬さんは、ゆっくり私の背中を撫でている。
その状態がまるで恋人同士のように見えるのも構わずに、ただ穏やかに、優しく。
「僕なら涼さんが追いつくのを待っていられるよ。いつまでだって待てる」
耳元で囁かれ、どくん、と鼓動がまた跳ねた。
「廣瀬さん…」
「カオル。涼さんにはカオルって呼んでほしい」
低く優しい声音が私の動揺を大きくしていた。
出会った頃は最低な男だと思っていた。
なのに、いつのまにか私は自分の体を廣瀬さんに預けたまま振りほどけないでいる。
「涼さん…」
耳元で囁かれ、ふっと顔が陰ったと思うと、再びキスをされていた。
さっきの車内の中と同じ、優しいキスだ。
「やめ、て…」
拒絶、できなかった。
横面をはたいてでも逃げ出せばいいのに、私はキスを受けたまま、固まっていた。
「少しは僕も期待できるといいんだけど」
そう微笑んだ廣瀬さんは、私からゆっくり離れて、ベンチから立ち上がった。
「さて、僕はそろそろ帰るよ。こんなところ、それこそスキャンダルになったらマズイから」
そう言って屈託なく笑った廣瀬さんの言葉に、私はさあっと青ざめる。
そして、青ざめたままの私を残して、廣瀬さんは軽く手を振り去っていった。
彼の手管だと、ようやく気づいて、震えが足元からのぼってくる。
ほだされるところだった。
キスまでして。
自分に愕然としながら、手元のケーキを見る。
それを一瞬投げ捨てようとして、できなかった。
ただ、触れあった唇は熱をもっているようだった。
廣瀬さんのキスが、一哉くんと同じ優しさをもっていると知って。
最初のコメントを投稿しよう!