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「一哉から、手をひいてくれない? 彼、あなたのことが心にかかって次のステップにいけないみたいだから。あなたから身を引いてくれたら、新しい世界が一哉には開けると思うの。それがトーイにとっても一哉にとってもいいことだと思うのよ」
「…」
「彼の部屋に、あなたの痕跡、すごくたくさんあった。でもそれが同時に一哉の足かせになっているの。彼にとっては、いまだにあなたが心にかかっていて、とてもじゃないけど音楽に集中できる環境に至ってないわ。でも私ならプライベートでも音楽のことを話して、彼のことを支えられる。どちらが一哉にとって、そしてトーイにとっていいことか、よく考えてほしいの。今すぐ返事を欲しいとは思わないわ。でもそうね、できれば来週くらいには、一哉ときちんと話をしてみるといいわ。彼だって話したいことあるって言っていたし」
「…わ、分かったわ…」
仕事の顔を崩せなかった。
それ以外、私に何ができただろう。
ここで言葉を返すことだってできた。
でもそれをしたら、私はアンジェと同じ、仕事ではない部分で張り合うことになってしまう。
仕事の顔を外したら、その場から今すぐにでも立ち去っていただろう。
でも今は、それをするわけにはいかなかった。
今は皆にまかされてアンジェの世話をしなくてはならない立場で、それはかつて面識があったから買われたことだった。
ここで取り乱してケンカするなんて、私は歳上として、そして仕事を今している身としてできなかった。
それが私の女としての精一杯のプライドだった。
私はただ動揺を押し隠したまま頷き、
「さて、他にご希望はある? 個人的なものではなく」
そう言った私に、少しアンジェは鼻白んだものの、お寿司以外のサンドイッチを食べたいと言った。
それを用意すると話してホテルの部屋を出る。
ようやく普通に呼吸ができるような、楽な気分になって大きく深呼吸を繰り返した。
薬指の指輪が、今はひどく重たかった。
その私の心を表すかのように、ここ数日の曇天から再び雨が降り出していた。
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