歯がゆい現実の迫間で

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荷物を抱えたなじみのスタッフが通りすがりにからかう。 それに笑いながら挨拶を返すと、一哉くんは自慢げに早口で言葉を返す。 うらやましがるな、なんていうニュアンスだ。 アメリカではさすが、人前でもハグやキスはたいして珍しいことではない。 いちゃいちゃしても、野次を飛ばすというより、いいねといったニュアンスは、日本ではちょっと考えられない。 さすがに最初は慣れなかったものの、一哉くんは、人前でいちゃつくことに怒られる理由がなくなったことに嬉々としていた。 アメリカの恋人同士は当然のようにいちゃついている。 そのせいか、アメリカに来てからのスキンシップは、日本にいる時のそれよりも増えて、さらに濃くなっている。 さすがに環境と、周りのリアクションが違うと私も感覚が麻痺した。 それに一哉くんの顔がまだアーティストとして割れてないせいで、気兼ねしなくてすんでいるのも、スキンシップに早くから慣れてしまった理由かもしれない。 周りのファンの目を気にする必要はない。 その開放感が、どこか私の箍を緩ませていた。 こういう環境じゃなくても一哉くんの、ファンの目よりも私を優先するというスタンスは前から変わらない。 でも私は、事務所のアシマネとしての立場もある。 そう簡単じゃなかった。 そのもどかしい状態に、最初は不満げだった一哉くんも、ただ私を困らせるだけだと気づいたらしい。 日本ではおとなしくしてくれていた。 「も少し」 離れようとした私を抱き寄せて、一哉くんは微笑む。 背が伸びてるだけじゃなく、一哉くんは確実に人としても成長している。 幸せそうな顔で目の奥に柔らかな光をたたえて微笑む姿を見るようになったのもここ最近だ。 私を愛しげに見つめてくる、その深く黒々とした瞳もまた。 アメリカが、いや日本ではない土地が、一哉くんをいまだ解決できていないしがらみ…母親からの見えない手から自由にしていた。 再び一哉くんの胸に頭をもたせかけて目を閉じる。 どうしたらトーイに、一哉くんに、そして私たちに一番いいのだろう。 包んでくれる腕はこんなに力強いのに、真っ白なシーツに落ちた一滴の黒いシミのように、どうしてもエドの言葉だけは拭えなかった。
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