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かつて世界中に、それこそ星の数ほどあった書店と印刷工場のほとんどがその標高を海水面に追い越されてからというもの、本とはすなわち組版データとなった。本は紙というオフラインメディアから、流通効率と表現力の優れたリーダー端末へ乗り換えた。ちょっとした歴史の雑学だ。
このご時世に店を続けるため、店長は電気と物流とネットワークから取り残された山岳地帯に販路を見いだしたのだ。
「おいリコ、せめてこういうときは紙の本を読んでくれ。リーダーを手放せとまでは言わんから」
店長が爺さんたちのところから戻ってきた。村の顔役たちへの挨拶が済んだようだ。
「なんだ、もう広げてんのか」
「チビたちがもう待ってられなくて」
「まあいいや、村長から商売の許可は貰ったからよ。始めるぞ」
店長のスキンヘッドに反射する日光が眩しかった。今回もつつがなく、ささやかな商いができそうだ。
ぼくはコンテナに群がる子供たちの傍らに座って店番をする。やがて小さな女の子が古い雑誌を差し出してきた。
「これください」
旧世紀の科学雑誌だ。表紙には宇宙空間を飛ぶ探査衛星のイラストが描かれている。
「大丈夫か? 難しくないか?」
女の子は太陽系の惑星軌道を描いた折り込みポスターが気に入ったようだ。
「だいじょうぶだもん! えっと……水星でしょ、金星でしょ」
「そうか、すごいなあ」
ぼくが笑っていると、こんどは背後からもう少し年上の男の子に声をかけられる。
「リコにいちゃん、こないだの続きあった? 大どろぼうの……ホ……ホッチェ……」
「ホッツェンプロッツの三巻なあ、ごめん、まだ入荷できてないんだ」
「そっかあ」
「見つけたら絶対とっとくからさ。同じ人の別の本あるけど、見る?」
「うん」
男の子は頷いてコンテナのそばにかがみ込んだ。
少し離れたところで、店長は初老の男性客と話している。ぼくのものより一回り大きなコンテナのそばで、二人は秘密の談合みたいに頭を寄せ合っている。おおかた、グラビア印刷のインクの盛りがどうの、被写体の肌の滑らかな階調がどうのと、そんなところだろう。
「いいですよねえ、旧世紀のスイムスーツ」
「この海をナメきった布面積、いやあ実にけしからんですな」
やっぱり。
ぼくは店長の大人向け書店から目を離し、村の様子を見た。視線の先に今夜泊めてもらうだろう村長の家がある。その戸口に濃紺のスーツ姿の男が座っていた。
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