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スーツ? この山の中で? ぼくはその男をもう一度よく見たが、男が店長よりは若いということと、短い黒髪に寝癖がついているということしかわからなかった。
スーツ姿の男は戸口に座ったまま、ぼくらが本を売る様子を眺めていたが、やがて大儀そうに立ち上がり、ぼくに向かって歩いてきた。足元は革靴で、少しふらついている。顔色もあまり良くない。
店長と話し込んでいた初老の客が彼に気がついた。
「おおあんた、もう具合はいいのかい」
「ええ、ずいぶん良くなりました。ありがとうございます」
少し堅苦しさのある、綺麗な話しかただ。発音も、語彙も、やっぱり異質な印象を受ける。
「今日は本屋さんが来てるんだ」
「変わったお客さんだな、見てってくれ」
男は店長とぼくを交互に見た。それから俯いてなにやら呟いていたが、急にがばと顔を上げ、店長を見た。
「あなたがたにお願いしたいことがあるのですが」
* * *
「このかたはミヤコシさんと言うてなぁ、行き倒れとったのを村のもんが見つけたんじゃ。本の仕事をしとるそうじゃから、デュプロ店長とも、話が合うじゃろう」
スーツの男は村長の家のもう一人の客人だった。
「なんと極東からはるばる来なすったそうじゃ」
夕食後のお茶の席で村長はミヤコシをぼくらに紹介し、ぼくらは客間のカーペットに座って昼の話の続きをすることになった。
「先ほどは失礼いたしました」
ミヤコシから両手をそろえて名刺を差し出された店長は、その珍しい作法に目をしばたたかせていた。
「スワコ・ブックマークス……スワコって言や極東の大企業じゃねえか」
名刺には見覚えのある企業ロゴが刻まれていた。電気とネットワークのあるところに住んでいれば、この山と湖のマークを知らない者はいない。ぼくが使っているリーダー端末にも、店長愛用の腕時計にも、麓の店で使っている店頭ポップ用のプロジェクターにも、小さくこのマークが刻まれている。
「いえ、その系列の、末端です。小さなものですよ。弊社はリーダー端末に配信する書籍の編集を主な業務としております」
「それが紙の名刺とは意外だな、アナクロだ」
「うちの部署はしばしばオフラインで動く必要がありまして。ほかの部隊はみんなプロフィールデータですね、やはり」
ぼくはミヤコシの名刺をもう一度見た。極東の複雑な文字が詰めてある下に、英語でアーカイブ調達部第二セクションと書いてある。
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