0人が本棚に入れています
本棚に追加
あみだ池タートルズ
水城麻衣
吉岡健介がその横断歩道の前で立ち止まったとき、彼の活動時間はゆうに30時間を超えていた。若干歩道に食い込んで伸びている電信柱に左肩を預け、そのまま目を閉じて寝てしまいそうになるのを何とか堪える。
右の肩に引っ掛けているリュックが、昨日はまるで重さを感じなかったのに、今は何か石でも拾って入れたかのように重い。大した荷物は入っていなかった。一日分の着替えと洗面道具くらい。
昨日から今日にかけて、健介が入学した学部の新入生研修だったのだ。研修と名前はついているが、学生同士の親睦を深めるためだけに用意された一泊二日の合宿。夜中まで飲んで話して、そのときは眠気なんか感じなかったのに、酔いも醒めてきた昼前の帰り道は酷く眠い。
この信号を渡って、通りを二ブロック分歩いたら、一週間前に引っ越してきたばかりの自分の部屋だ。あと少し、と、点滅を始めた向こうの青信号を横目で眺めていたその瞬間、健介は、ドン!と右肩に感じた鋭い衝撃に思わずよろけた。
あっ、と思う間に、右手を振られるような感覚と、肩のあたりで何かが擦れる感触。
「うわっ!」
一瞬何が起こったのかわからず、息を詰めたそのとき、閃くように色が視界に入る。健介の右側を掠めて駆けぬける影、緑色の上着の背中が一瞬だけ見えた。
ちらりと見えたその人影が、あっという間に曲がり角を曲がって消えたそのとき、ようやく健介は、リュックがなくなっているのに気付いていた。
「え、ひったくり?」
「吉岡?どうしたん?」
一緒に帰り道を歩いていた同級生、上田がのんびりとこちらを振り向く。
「ひったくりだ、……リュック盗られた!」
「ええ?そんなんおった?」
「いたよ、今、ここ、走ってっただろ!」
「そうかあ?」
ひったくり犯は、健介の右側を走り抜けていったのだ。つまり健介と上田の間を通ったことになる、上田が見ていないわけはないのに……!
「おまえ、リュックとか持ってたっけ?」
ぼんやりと間延びした上田の声は、寝不足の変なテンション丸出しだ。話していても埒があかない。……健介は思わず天を仰ぎ、溜息をつく。
まさかここで、ひったくりなんかに遭うとは。大阪の真ん中は怖いって噂には聞いていたけど、本当だったんだ、どうしよう、これから、まず警察だ、警察に届けないと、財布と携帯は幸いポケットの中だけど……。
「ん?」
最初のコメントを投稿しよう!