第1章

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小泉堯史監督作品。 脚本・小泉堯史、古田求。 原作は満票で直木賞を受賞した葉室麟の長編小説。 この映画、全篇を通して粛然とした空気に包まれている。上田正治による、言わば〈黒澤調〉のマルチカメラ方式の撮影は、構図や人物の配置にも独特のこだわりが感じられる。小泉監督によると役者の演技は、最初のテイクをほとんど採用したという。何故か。最初のテイクというのは、いちばん作為が希薄で、役者の演技が自然に近いと感じられるからだという。 小泉演出は黒澤映画との共通点をよく言われるが、明らかに違う点もある。 例えば人物を見る目がやさしいし、黒澤映画にある“いかめしさ”が感じられない。物柔らかで穏やか。ぼくが観た小泉映画に共通する特徴である。 溜め池で庄三郎が郁太郎と相撲を取った後の二人の語らいの場面。郁太郎役の吉田晴登君の姿勢の良さに、しつけの厳しい家に育った武士の子らしさがよく出ている。 生活の描写と設定も凝っている。例えば、戸田家で使っている水は井戸水ではなく、山からの絞り水。つまり伏流水のようなものと言えばいいだろうか。 御家譜は、まず秋谷が下書きをし、かつて祐筆をしていた庄三郎が清書をする。その筆遣いの違いの描写。 織江と薫の刈り取った藺草の仕込みの様子。 戸田家の食事の様子。作法は小笠原流に則った厳しいものであるが、それをごく自然に一家団欒の中で行っている。 こういう生活をしっかり描くことで、この戸田家の人々の人物像が浮き彫りにされてくる。小泉監督の基本に忠実な演出法は、決して間違ってはいない。 庄三郎は慶仙和尚に、秋谷が罪に問われることになった、お家騒動の真相を訊こうと長久寺を訪ねる。慶仙和尚はお家騒動の顛末を詳しく話し聞かせるが、真相は明かさない。何か知っている様子だが、言ってはくれない。天網恢恢疎にして漏らさず。つまり、悪事は当座たとえばれなくとも、のちのち必ず明らかになり、悪者はみな何らかの罰を受ける、の意。慶仙和尚が何を指してこの言葉を使ったのか、庄三郎はまだ気づいていない。
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