第1章

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 そっとふみは筆を置くと、それきり黙ってしまった。 「私には武士など向いてないのだ。あいつの顔を立てて行ってはみるが、ここが私には合っていると思っている」  それを聞いて、ほっとしたのか、ふみは大きく溜息をついて言った。 「先生。今度手紙を書くので教えていただけますか?」 「あぁ、もちろんだよ」  花がほころぶように笑って、ふみはいつものように鐘の音とともに帰っていった。  ***** ――――先生が仕官してしまったらどうしよう。  そう思うだけで胸が苦しくて、いつものように町を走り抜ける事が出来なかった。 「おふみちゃん?今日は遅かったねぇ。顔が青いけど、やっぱりこの間から風邪気味なんじゃないかい?部屋で休むかい?」 無理やり笑顔を作りお姉さんに笑いかけると井戸まで行って、座り込んだ。袖口から貝殻が転がって落ちた。 ――――先生……行かないでください。  ただそう願って貝殻を拾い上げると、胸の前で祈るように握り締めた。  *****  二日ほど考えて、一度幼馴染の紹介状を持って藩を尋ねてみた。  そもそもお勤めなど向いていない。私を見れば断られるだろう。こんな腕のない私など、話を聞いておしまいなのだろうと、あいつの顔さえ立てればそれで仕舞い。そう考えていた。  一張羅の紋付に身を包んで、門をくぐると空気が張り詰めているようで自分に場違いなのがわかる。  座敷に通されて、しばし待つと上役と思われる穏やかそうな堅実そうな男が入ってきて、世間話を始めた。  雑談に近いものだった、剣術の腕を試されるわけでなく、そろばんを弾かされるわけでもなかった。ただ身の上や、人柄を探られているような気はしたが「こんな男では無理」だと思ったのだろうと断りを決め付けていた。  その日も朝から、「手習所」の庭の枯葉を掃きながら、子供達の相手をしていた。  羊の刻。いつもどおり小走りでふみがやって来て、私の顔を見るとほっとしたように「お願いします」と頭を下げた。  そのふみの様子に、自らも安堵をし、この暮らしに満足していると実感した。
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